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とても悲しいドラゴン殺しのファンタジー。 ドラゴンという存在について考えた。 ひとに何かを託され、ひとに想われ、そして最後は、ひとに殺される。 それはまるで――ひとそのものではないか、そんなふうにすら考えてしまう。 後半明かされるドラゴンの正体を楽しみに読んでほしい。 もちろんそれは、希望と呼べるものでは全くないけど。 ドラゴンと戦う「V」という存在。 この作品のタイトルでもある。 「V」というイニシャルから何を想像するだろうか。 たいていのひとは「Victory」を予想するのではないか。 そうであれば、物語はハッピーエンドを迎えたかもしれない。 ヒントを挙げるならば、「V」は基本的には「女性」ばかりだ。 染色体上の都合で――と作中説明されてはいるけども、 ドラゴンを殺すのが女性ばかりという点は深読みせざるを得ない。 V――女性たちは、羽根を広げ、空を飛び、手にした武器を使ってドラゴンたちを殺す。 描かれるその姿は美しい。ときに、ドラゴンに殺される。その姿すら美しい。 女性たちはそれぞれにドラゴンと戦う理由がある。 それは生きる理由であり、死ぬ理由でもある。 ハルカ、セリナ、エレナ、オリガ、フミコ、それから、アヤノ。 誰もが戦う姿はどうしようもなく美しかった。 それはきっと、誰もがどうしようもなく誰かを愛していたから。 誰もが愛することに殉じた女性たちのファンタジー。 殺されたのは、果たして本当にドラゴンだろうか。 ドラゴンがドラゴンになる前の姿を思うとき、ドラゴンになった理由を思うとき、 またそれも同じ女性の姿であったと、多少のネタバレを含みながら思う。 ファンタジーに、ドラゴンや、女性の戦いや、やるせない愛憎を求める方には、 間違いなくお勧めできる一冊。 ひとつdisclaimerを追記するなら、 ファンタジー(幻想)と呼ぶには多分にリアリティを含んでいるかもしれない。 ドラゴンに幻想を求めている方には推奨できない。 本当はそういう人にこそ読んでほしいと、こっそり思いながら。 | ||
タイトル | V〜requiem〜 | |
著者 | ひざのうらはやお | |
価格 | 1000円 | |
ジャンル | ファンタジー | |
詳細 | 書籍情報 |
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「bonologue(ボノローグ)」というタイトルの本である。 bon(おいしい)+ monologue(つぶやき)で、ボノローグ。 煩悩の記録(ログ)とのダブルミーニングでもあるらしいが、 要は美食の体験をつづったエッセイである。 飯テロ――。 数ページめくったところ、私の脳裏にこの言葉がうかんだ。 飯テロとは、ウェブ上に美味しそうな食べ物の写真をアップし、 それを食べられない閲覧者たちの食欲を無慈悲にそそる行為である。 この「ボノローグ」という本は、文章による飯テロなのではないか。 午後11時前のおなかをすかせ始めた胃袋がとっさにアラームを鳴らした。 その不安は杞憂に終わった。 確かにつづられているものは大変美味しそうな美食体験記で、 間に挟まれている華美な料理の写真も、 食欲をそそるには十分なものであるはずだった。 しかし、これは飯テロではない。 何故なら私の胃袋は、この文章を読むことによって満たされたからだ。 エッセイの形を取っている文章である。 正岡さんの軽快な語り口が心地よく、ページをめくる手を急かしてくれる。 アミューズ、前菜、お魚料理、肉料理、デザート、小菓子と、 供される料理によって正岡さんの描写も変わる。 ときに素朴に、ときにかしこまって、ときにアバンギャルドに。 それはきっと料理を食べたときの正岡さんの感情そのもので、 読者は文章を読むことにより、それを追体験する。 気がつけばその味すら感じられる――は言い過ぎだろうか? 必然的に 「いのちには必ず背景があります。背景はモノにものがたりstoryを与えます」 という作中の言葉が説得力を持つ。 食事する行為は物語であり、文章を読むことも物語であり、 そのふたつが「ボノローグ」で重なる。 この本は、「読む食事」だ。 読み終わると、美味しいものを食べたいと思う。 食べることを大切にしようと思う。 そういうふうに読後変われることは、エッセイの醍醐味のうちのひとつだ。 毎日の食事がいつもより彩りづいて見えるようになる、美食の本だ。 | ||
タイトル | bonologue vol.2 | |
著者 | 正岡紗季 | |
価格 | 800円 | |
ジャンル | エッセイ | |
詳細 | 書籍情報 |
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「嘘の町を出ていく」は2017年4月1日に発行された本だ。 4月1日。大抵のひとにとってその日は、嘘をつく日、として認識されるものだと思う。 本作中では、嘘をつくためのルールが母の言葉によって語られている。 つまり「だまされているあいだ楽しいこと」「醒めても<よかった>と思えること」。 それを「よい嘘」と規定するのであれば、創作は全て「よい嘘」であるべきなのかもしれない。 創作物は嘘で、つくりごとだ、けど、本作の冒頭に書かれているように、たしかにここにあるものだ。 つくる人たちは、誰もが心のなかに嘘でつくられた町ペテンブルクを持っている。 そこではいろんな人たちが生活している。 読者は作品を読むことで、その町のなかに混じる。 もしもそのなかで恋をすることができたなら、それ以上の読書体験はないんじゃないか。 本作「嘘の町を出ていく」を読みながら、そんなことを思った。 そして。この作品自身が、そんな読書体験を与えるものなのかもしれない。 短い物語ではあるけども、嘘つきのペトレと踊り子のシアーシャは確かにそこにいて、 生きて、恋をして、読者は必死な姿に惹き付けられる。 ふたりの幸せな結末を願うようになる。 実際の結末がどうであったかは……自分自身の目で確かめてほしい。 でも私は、この物語は「よい嘘」だったと思う。 だまされているあいだ楽しくて、それで、醒めたあと<よかった>と思えた。 読み終わったあとの読者は、どこへ行くのだろう。 それはそのまま、嘘の町を出たあとのペトレと相似する。 物語の続きは、いつだって読者に託されている。 嘘をつこう。読んだあと、君はきっとそういうふうに思う。 飛び切りの嘘を、飛び切り「よい嘘」をついてほしい。 もしかしたら、それはいつか、本当になるかもしれない。 | ||
タイトル | 嘘の町を出ていく | |
著者 | らし | |
価格 | 300円 | |
ジャンル | ファンタジー | |
詳細 | 書籍情報 |
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なんにもない、という言葉が好きだ。 田舎に育った人々が自分の地元を評してこの言葉を使うことが多いかもしれない。 「僕の地元なんてなんにもないよ」 そこには、自嘲と、事実と、ほんのすこし愛着がある。 愛着という意味でいえば、なんにもない、に続く言葉がある。 「なんにもないが、あるんだよ」 それが分かっているから、どうしてなんにもないのか訊いたりはしない。 私は、この言葉が大好きだ。 しかし本作中で、被災地で会った人が自分の町を振り返って 「なんにもない町だから」 と呟いたとき、その言葉の重さに手を止めてしまった。 そこには、自嘲はあるだろうか。事実はあるだろうか。 愛着、という言葉の意味が分からなくなる。 分かっているから、どうしてなんにもないのか訊いたりしない。 そこに「なんにもない」はあるだろうか。 イリエの情景は、 イリエとミツバという女の子ふたりが、 東日本大震災で被災した東北の町(石巻市/南三陸町)を訪れる物語だ。 ふたりは大学の文芸学部創作学科に属しており、 被災地について知るためその地を訪れようとするのは自然であっただろう。 その旅を提案したミツバは言う。 「発信するなんて誰でもできるよ。それよりは、自分自身の気持ちと対話したいと思うんだ」 そんなミツバほど、イリエは被災地に興味を持てなかった。 代わりにイリエは、ミツバを知るためにその旅に付いていこうと決意する。 半ば軽薄な下心だったのかもしれない。 しかしふたりはそれを良しとした。 重苦しくなく、ただ被災地を訪れるため、旅にこの名前をつけた。 <被災地あるこ~東北ちょこっとふたり旅~> イリエが、ミツバが、被災地で見たものはなんだったのか。 それはこの推薦文では語りたくない。 イリエがそうであったように、言葉にしないほうがいいこともある。 ミツバがそう求めたように、ちゃんと見るほうが大切なこともある。 言葉にしなくても、言葉としてはなんにもなくても、そこにはある、のだ。 だからただ、この本を読んでほしい。 あとがきで作者は語る。 本当はノンフィクションやルポライトとして書くつもりだった、と。 しかし書けなかった。 それはそのまま、イリエの姿なのかもしれない。 フィクションはフィクションであるかぎり、現実を越えることはない。 しかし、現実が現実を越えるような情景を前に、フィクションでしか書けないものはある。 このフィクションは、読者をその場所へ運んでくれる。 そういうふうに思う。 あなたの視点は、ミツバに重なるだろうか。イリエに重なるだろうか。 | ||
タイトル | イリエの情景 〜被災地さんぽめぐり〜1 | |
著者 | 今田ずんばあらず 小宇治衒吾 | |
価格 | 1000円 | |
ジャンル | 大衆小説 | |
詳細 | 書籍情報 |
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「SF」ってなんの略だったっけ? 最初にそんなふうに考えた。 「Science Fiction」が正解だ、たしか。 うん、ウィキペディアを調べてもそう出てくる。 誤りだけど「すこしふしぎ」の略だって言ってるひともいた気がする。 あれ、「すごくふしぎ」だったっけ。 この短編集は「SF」だった。「すごくふしぎ」だった。 なむあひさんが好きそうな話だな、と思った。 なむあひさんとは誰か。 小説家か、友だちか、 まあ、「すごくふしぎ」を好きな読者のひとりだと思ってくれたらいい。 この話は、なむあひさんとふたりで読みたい話だと思った。 例えばなむあひさんとふたりで歩いていると、家がある。 真四角な形の部屋がでたらめに何個も連結された、「すごくふしぎ」な家。 僕もなむあひさんも「すごくふしぎ」が好きだから、その家のなかに入る。 家の部屋には、それぞれいろんな名前がついている。 たとえば、「風」「緑」「休日」「諍・鬼畜」 「時」「サマータイムデート」「星空サロン」「花火」「長い夜」など。 僕となむあひさんは、その部屋たちを探検する。 髪を切ってもらったり、とびうおを観たり、銀行強盗に遭ったりする。 部屋を出ると、また次の部屋へ。 次に向かう部屋はいつも違うのに、でたらめなのに、どうしてだかつながっている。 物語から物語へ。 ずっと変わらないのは、目にする光景がすべて綺麗だってことだ。 僕はそのなかに、大好きな部屋を見つけた。 「アジサイの森」という部屋。 この家はどこにいても海の匂いがして、それはこの部屋からかぐわっているのだと分かった。 部屋中がみずみずしいアジサイに満ちていて、その向こうには青い空が見える。 なんだか、海がさかさまにぶらさがっているようだと思った。 そこから落ちてくる滴からは、雨の匂いがしない。 ただ、「かわいそう」という声がした。 その言葉を最後に、「出発」という部屋からこの家を出る。 僕となむあひさんは、感想を言い合う。 「わからなかったね」と、恥ずかしそうに言う。 そのくらいが「すごくふしぎ」な家の感想としてはちょうどいい。 そんな、夏休みのちいさな探検のような物語集だった。 ひとつひとつの物語を読んで、つなげて、ふしぎな感覚を味わうのにわくわくした。 あまぶんは、8月27日。 夏休みの最後、やり残した宿題を終えるように、この物語を読んでほしい。 それから、夏の最後の空を見上げてほしい。 空はどこまでも繋がっている。 あなたのいる場所にも、物語の世界にも。 | ||
タイトル | お題連作短編集2013 | |
著者 | N.river | |
価格 | ¥200− | |
ジャンル | 掌編 | |
詳細 | 書籍情報 |
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推薦文を書くにあたり、推薦コピーを書くことになっている。 書く前にコピーを決めてから推薦文を書き始めることもあるし、 書き終えた後に推薦文を振り返ってコピーを書くこともある。 いうまでもなく、コピーは大事だ。 だから小説のことを考えて、思い返して、真剣に作る。 この小説の推薦コピーは、すぐに思いついた。 「純度100%の青春バンド小説」 あまりにありきたりすぎて、ちょっと笑ってしまう。 もう半分で、著者の紺堂カヤさんに申し訳なくなる。 でも、このコピーを思いついた直感を信じることにした。 この小説は、春のどこまでも突き抜ける青い空のような、 スカッと爽快で気持ちのいいバンド小説だ。 青春、と呼ぶには、登場人物たちの年齢は高いかもしれない。 みんな大学を卒業して働いているような社会人たちだ。 それが、かつて大学でバンドをやっていた縁に引きずられ、 「天才」深水壮太に引き寄せられ、再びバンドを組むことになる。 音楽をやるにあたり、きっとすごく苦労する話なんだろうな、 なぜかそんな先入観があった。 バイトでお金を稼ぐかたわら、ライブをやってもお客さんは来ない、 ノルマに苦労し、取り置きを流し、年中離れられん金貸し、 「ライブなんで休ませてほしいんですけど」と言えばバイトをクビになり、 「OK、余裕」と呟いたりするBAD END。 (今思えば、なんの予備知識だったんだそれは……) 少しネタバレになるけど、そんな苦しい下積み時代はぜんぜんなかった。 お金には苦労がなかったし、スタジオつきの家まで用意されていた。 そのまま、とんとんとん、と、デビューしてしまう。 そんなところが、なんか、すごくいいな、と思ったのだ。 どうして音楽をやるのに、好きなことをやるのに、 苦労しないといけないと思っていたんだろう? ただ純粋に音楽をやる奏は、亮は、サヤは、楽しそうだった。 きらきら輝いていて眩しかった。 その全てが、小説のフィナーレに結集されていて、 誰もが知っているだろうライブが終わったあとの 狂ったような感動を思い出させた。 そしてきっと、壮太も。 壮太は言う。 「やりたいことがあるのにやらないなんて頭おかしいよ、変だよ」 それだけでよかったのかもしれない。 好きなほうへ、行きたいほうへ 手ノ鳴ルホウヘ 少しだけ未来が好きになる、前向きで気持ちのいい小説だった。 | ||
タイトル | 手ノ鳴ルホウヘ | |
著者 | 紺堂カヤ | |
価格 | 1300円 | |
ジャンル | 大衆小説 | |
詳細 | 書籍情報 |
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分かりやすさが売り物の価値だとある歌詞でうたわれた。 その歌は確かあまり売れなかったので、皮肉にもその言葉を自己証明した形になった。 三段論法でいえば、「売り物の」という言葉は省略してもよい。 分かりやすさは、そのまま価値なのだ。 その定理に従うなら、「現代詩」というものは弱い。 まず、分かりにくいし、つまらない。 それが分かっていながら、現代詩を愛する人は一定数いる。 彼や彼女は何を求めてそれを読んでいるのだろうか。 ひとりひとりに訊いてみたい気がする。私もそのひとりだが。 私が現代詩を読むときに求めるものはといえば、それは「空振り感」だと思う。 例えば夏の高校野球の、最終打席のような、 居心地のわるい、恥ずかしい、でも少し気持ちのいい空振り。 誰にだって、人生においてそんな空振りをした経験があるはずだ。 だとすれば、その「空振り感」が後の人生をどれだけ豊かにしたかということも、 分かっているはずだ。 前置きが長くなったが、海老名絢「きょりかん」について。 この作品が「現代詩」だと思うのは、 丁寧に選び抜かれ情景を構成する言葉遣いと、それと人間が描かれているところ。 「きょりかん」という言葉のとおり、いくつかの詩には人と人の関係、 「きょりかん」が描かれている。 多くは男女のそれだ。 すこしエロティックで、肉体的かつ感情的で、 しかし恋人と呼ぶにはたよりない。 そんな非決定的な人間同士の「きょりかん」が描かれている。 ひとつひとつの言葉を追い、関係を見つめながら、 「なんだか危ういな」と思ってしまう。 この詩集には、ハラハラさせられてしまう。 ひとは、危険を感じるとそれを恋のように勘違いしてしまうらしい。 この気持ちが勘違いでなければいいのにな、 詩集を閉じたあと、そう思ってため息をひとつ零した。 現代詩を読み終えたときの感覚がいっとうに好きだ。 そこに、私が現代詩を読む理由の全てがある。 「空振り感」といってしまえばかんたんで、でもほんとうは、もっと難しい。 海老名さんの詩を読み終えたとき、私には「音楽が聴こえる」。 外を走るトラックの音とエアコンの音しか響かない部屋のなか、私の耳に聴こえる。 私を誘うのだ、「こっちだよ」と、甘いメロディーラインで。 それをタナトスだなんて言われたくないし、かといってエロスでもない。 その間を揺れ動く微妙な「きょりかん」、 空振りする瞬間に脳裏に浮かび上がるホームランの幻影、 闇にかすむわずかな「光」のような詩集だ。 | ||
タイトル | きょりかん | |
著者 | 海老名絢 | |
価格 | 500円 | |
ジャンル | 詩歌 | |
詳細 | 書籍情報 |
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「ほどけない体温」は、周と忍というふたりの男が出会い、 幸せになるまでを描いたBL作品である。 BLの文法に従い、男性同士の恋愛模様が描かれ、 お約束の濡れ場もある(R18であるため、描写は濃いめだ)。 BLは、エンタメ⇔純文学、という軸でいうなら、 わりとはっきりとエンタメに寄っている分野だと思っているのだが、 本作は比較的、純文学寄りだ。 キャラクターというよりは、血の通った人間が描かれている。 主人公・周のまわりには本人いわく「ゼリー」の膜が覆っていて、 それは自覚した同性愛者としての苦悩であり、 世界との接点が見いだせない。 そんな周のまえに、おちゃらけた男、忍が現れる。 ふたりの出会いから、物語は密度を増していく。 忍は周に気持ちを寄せ、その「ゼリー」の膜をやぶって彼と気持ちを通わせようと挑む。 どれだけ「ゼリー」の膜に拒絶されても、何度も、めげずに。 本当は周と忍が出会った瞬間から、ふたりの気持ちは通じていたのだと思う。 だからこそ、なかなか繋がれないふたりの姿はもどかしい。 「ゼリー」の膜はもはや周自身でも制御できなかったのかもしれない。 物語半ば、ふたりが身体を重ねた場面では、 「ゼリー」の膜は破られていたのだろうか。 物語のラストシーンでは? ふたりの、周と忍が幸せになるまでの物語は続いていく。 それは、読者がふたりを応援する物語でもある。 誰にだって。 そんなことを考えた。 誰にだって、「ゼリー」の膜はあるのではないか。 だからこれは対岸の物語ではなく、 もっと身近な、少なくとも周というひとりの人間のなかにあった物語だ。 それだけに切実で、苦しい。 彼の感傷を追体験することができたなら、 それはそのまま、読者の物語になる。 もしも読んだひとの心のなかに、周と忍を住まわせることができたなら。 それを、ハッピーエンドと呼んでもいいのかもしれない。 | ||
タイトル | ほどけない体温 | |
著者 | 高梨 來 | |
価格 | 900円 | |
ジャンル | JUNE | |
詳細 | 書籍情報 |
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「15/30」というタイトルのこの本。 著者・小高まあなさんいわく「30年生きたうちの15年は創作サイトがあった」、 そちらに掲載された作品をまとめた作品集である。 この本について語るにあたり、まず触れなくてはならないのは、 「とにかく分量がスゴイ!」 ということ。 500ページある。 しかもそれが上下巻。 そのうえそれぞれ、2段に組まれているから、単純計算ならさらに倍だ。 文芸同人誌でここまで厚い本は見たことがない。 複数の筆者が参加する合同誌ならまだしも、個人誌ならなおさらだ。 どうして最初に分量について触れたのかというと、 きっとこの本を手に取った誰もがそういう第一印象を持つだろうというのがひとつ。 それともうひとつ、この圧倒的分量を読み終えたときの印象を伝えておきたかった。 その印象をごく簡単にいうなら「読みやすかったな」というものだった。 1000ページ読んだのに、ぜんぜん疲れてない。 とにかく読むことにストレスを感じなかった。 わりあい難解な表現や描写が少なく、文体が素直というのもその一因だろう。 それ以上に、読んでいて「どんどん次が楽しみになる」。 この作品の魅力は「世界」だと思う。 この1000ページは、ひとつの世界でできている。 19作の短中編で構成されているのだが、これらは全て同じ世界のなかの物語だ。 「調律師」の主人公・沙那と龍一が、 「ひとでなしの二人組」の主人公・マオと隆二が、 「中曽根心中」の主人公・ここなと京介が、 それぞれに物語を持ちながら、ときに出会い、ときに離れ、絡み合って進展する。 ひとつの「世界」をいろんな人の視点から見るのは楽しい。 時に辛いものを見て、悲しくもなる。 一緒に笑ったり、泣いたりできる。 それが小説のかけがえのない魅力のうちのひとつだったな、 ということに気づかせてくれる本だった。 そういう本に出会える人生を、幸せと呼んでもいいのかもしれない。 「人生は緑色」という出店者名を思い出して、そんなことを考えた。 この本に掲載されている作品はそれぞれ分冊されて頒布されているので、 どれか気に入った作品の本から買って読み始めるのもいいだろう。 でもできれば、この「15/30」を手に入れてみてほしい。 1000ページを読み終えたとき、きっと君は、少しだけ大切なことに気づく。 それを言葉にはしないが、ヒントは推薦文のなかに忍ばせた。 例えるなら、小説を読む理由みたいなものだ。 | ||
タイトル | 15/30(小高まあな作品集) | |
著者 | 小高まあな | |
価格 | 3000円 | |
ジャンル | ライトノベル | |
詳細 | 書籍情報 |
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Dominantな小説だった。 Dominant、とは、アメリカ・メジャーリーグベースボールにおいて ピッチングを評価するときに、最大級に近い賛辞として 与えられる形容詞である。 日本語では「支配的」と訳される。 Dominantなピッチャーは、あらゆる球種・緩急・コースを使って 打者を思い通りに打ち取る。 打ち取られた打者は、半ば賞賛の意味を込めてちいさな溜息を吐く。 私がこの小説を読み終えたときの溜息は、それと同種のものだった。 この小説は、dominantだ。 300ページかけてあらゆる人物・伏線・設定を使って 読者を思い通りに魅了する。 この小説は、読書を支配している。 こんな小説を書けることは、作家冥利に尽きることだろう。 もちろん著者の土佐岡さんにとって本作は目的地ではなく あくまで経由地点であることを願う。 ベースボールにおいて評価されるのは一試合の成果ではなく、 シーズンを通しての貢献であるように。 この小説をdominant足らしめているのは、 破綻なく作りこまれた構成と、見事に読者の裏をかく伏線であることは疑いない。 それ以上、著者の土佐岡さんがこの小説と真剣に向き合い、 誠実にこの小説を書いたからに他ならないように思う。 そのようにして書かれた小説は幸せだ。 それはまた、読者の幸せにも繋がる。 「嘘つき」が重要な役割を果たす小説だ。 そんな小説を書く土佐岡さんもまた「嘘つき」なのだろう。 しかし「誠実な嘘つき」だ。 だから思う、騙されてよかった。 300ページを一気に読み終えたあと、残ったのはそんな虚脱感と、 ちいさな溜息と、賞賛と、感謝と。 | ||
タイトル | 嘘つきの再会は夜の檻で | |
著者 | 土佐岡マキ | |
価格 | 1000円 | |
ジャンル | 大衆小説 | |
詳細 | 書籍情報 |
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お洒落な小説だな、と感じたのが第一印象である。 ファッションとしては決して最新ではない。例えるなら古着だ。 なつかしく、ほころびていて、なんだか水の匂いがする。 オカワダアキナの小説からは、水の匂いがする。 不安は誘う、しかしそれを身体に馴染ませるのは、人生を豊かにするはずだ。 ファッションに関していえば、オカワダアキナの小説には 蠱惑的な装置が多く現れる。 叔父とのセックス、白い水餃子、蛹にならない蝉、廃れた宇都宮の町並み バレエ、「真夏の夜の夢」という演目。 それらは服飾における装飾具のごとく、 作中世界を魅力的に演出する。 そのひとつひとつを追う読書感覚は、 まるでファッションショーを見ているかのようだ。 決して具象的ではないストーリーが後から追いかけてくる。 抽象、という意味では、松本大洋作品を好きな読者は この作品を気に入ることだと思う。 特に印象に残った人物がいた。 叔父さんの彼女、ゆみこさんだ。 同性愛主体で描かれた作品のなかで、彼女だけが「異性」だった。 彼女と主人公は交接しない。頼んだ飲み物はセーフセックスオンザビーチだった。 アルコールは入っていない。入ってはいないのだ。 果たして本当に交接しなかったのだろうか? そもそも、ゆみこさんと叔父さんは交接したのだろうか? 作りこまれたオカワダアキナ・ワールド「水ギョーザとの交接」のなかで ゆみこさんは作られていない異質だった。 邪推するなら、オカワダアキナ本人かもしれない。 そして、それが作品における水の匂いの正体なのだと思う。 繰り返す。 不安は誘う、しかしそれを読み取るのは、読書を豊かにするはずだ。 | ||
タイトル | 水ギョーザとの交接 | |
著者 | オカワダアキナ | |
価格 | 400円 | |
ジャンル | 大衆小説 | |
詳細 | 書籍情報 |
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どうして美しいものを読むと悲しくなってしまうのだろう? そんなことを考えた。 この書籍には、美しいものしか書かれていない。 例えるならタイトルの通り、薄闇のなかに咲くひとひらの桜花。 わずか40ページ。 しかし物語がそぎ落とされるほど、それを分母として 全体としての数は無限大に拡大していく。 悲しくなるのは、きっとそこに世界を見いだすからだ。 世界は悲しい。生きることは悲しい。 それを言葉にすることなく、ただ目の前でエロティックに示してくれる ストリップ・ショウのような一冊だった。 そこには声もない、しずかなだけの涙がある。 本作のジャンルはJUNEである。 前回ほど明示はしていないが、尼崎文学だらけではJUNEに明確な定義を与えている。 それは「異性愛ではないもの」。 本作は男娼をモチーフにした話であり、単純に読み取るなら同性愛の話である。 もし可能であるならば、少しだけ拡大解釈してほしい。 物語に描かれた、男娼の「異性愛ではないもの」を。 それは言葉にしなくてもいい。ただ感情として、携えていてほしい。 | ||
タイトル | 桜花咲くひとひらの薄闇にて | |
著者 | 浮草堂美奈 | |
価格 | 300円 | |
ジャンル | JUNE | |
詳細 | 書籍情報 |
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短い歌と書いて短歌。 歌ならば、やっぱり声に出してみたいじゃない? そして歌うのは、とっても楽しい。 けどちょっと、緊張する。 この歌集を声に出すのは緊張する。 だってまるで……「告白」みたいじゃないか。 誰に対する告白? そんなこと、わかってる。 この歌集の向こうには、ひとりの男の子が見える。 例えばその子の名前が「ことわり」だったとしよう。 ちょっとだけかしこまって、「さん」をつけて呼んでみたりする。 そして、「ことわりさん」といろんなことをする。 フライドポテトを食べたり、渋谷のモロゾフに行ったり、 夏の夕立としておとなになったり。 この歌集を読むとき、あなたは男の子になる。 そして、「ことわりさん」とデートをする。 この歌集は、あなたとことわりさんとのデートの記録だ。 BLを体験できる歌集だ。 「ことわりさん」の姿を思い浮かべて、声に出して読んでみてほしい。 かっこよく、かわいく、ただしく、やらしく、うえになって、したになって。 愛し合うのは、楽しくって、恥ずかしい。 さいご、あなたは「自殺に立ち会う」。 「ことわりさん」とのデートは、そういうふうに終わる。 でも、ちっとも悲しくならないから不思議だ。 代わりに、名前のつけられない感情が遺る。 「ことわりさん」は、あなたのなかに遺る。 おもうんだ。 BLって、素敵じゃない? こんなに楽しくって、恥ずかしい! | ||
タイトル | ことわりさん | |
著者 | 壬生キヨム | |
価格 | 200円 | |
ジャンル | 詩歌 | |
詳細 | 書籍情報 |
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「小説は偏愛的であるべきだ」 私が敬愛するある作家に、この言葉をもらったことがある。 「自分が書きたいと思った内容を、これでもかというくらい偏執的に書く。 そのくらいにしたほうが、自分ではない相手には伝わるんじゃないかって」 偏愛的とは何か、それは正しいのか、 そのようにして書かれた小説が、読者にどんな効果をもたらすのか。 もしも答えが知りたいなら、咲祈さんの著作「None But Rain」を読んでほしい。 Juneである。 あまぶんの定義に依るならそれは「異性愛ではないなにか」だ。 この作品を読んでいると、身体が熱くなる。 頭や心よりも先に、身体が焼けつきそうになる。 季節は夏がいい。じっとりとした湿度が汗を滲ませる。 雨が降りそうだと思う。あるいは雨を呼んでいる。 「None but rain」。 正しく訳すなら、「雨しか降らない」になる。 誤訳でもいいから、まるで悠弥と悠希のきょうだいに救いを与えるように、 この作品に適切な訳をつけてあげたい。 六月である。 作品の文脈に沿うなら降るのは「雨ではないなにか」だ。 この作品を読んでいると、身体が熱くなる。 頭や心よりも先に、身体が焼けつきそうになる。 小説は偏愛がいい。書き込まれた描写が涙を滲ませる。 悲しい思う。あるいは悲しみたい。 「None but rain」。 誤訳でもいいから、この作品に適切な訳をつけてあげてほしい。 悠弥と悠希のきょうだいが、もう泣かないで済むように 代わりにあなたが泣いてほしい。 | ||
タイトル | None But Rain | |
著者 | 咲祈 | |
価格 | 500円 | |
ジャンル | JUNE | |
詳細 | 書籍情報 |
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テキストレボリューションズ(テキレボ)というイベントがある。 あまぶんと同じテキスト系の同人誌即売会で、 毎年2回東京の浅草で開催されている。 テキレボの特長は、企画の多さだ。 BL企画に少女小説企画、長編企画、鳥小説企画など、 それも参加者有志で多くの企画が発案・実施され、 あたかも“小説の文化祭”さながら会場を賑わわせている。 「おっさん×少女」もそこで行われた企画のうちのひとつだった。 本作「cigar(前編)」は、その「おっさん×少女」の流れを汲む作品である。 さて、「おっさん×少女」企画、 おっさんと少女を組み合わせて小説を書こうという主旨ではあるが、 言葉を濁さずにいうと幾分「いやらしい」期待が 寄稿される小説に預けられていただろうということは、 賢明な読者なら予想いただけることだと思う。 そんなことを半分考えながら、本作「cigar(前編)」を開くことになる。 著者である夢想甲殻類・木村は、 どのように本作を「おっさん×少女」企画の”主旨”にそぐうものに足らしめたのであろうかと。 「cigar(前編)」の主人公としてはふたり登場する。 “おっさん”メイズと、“少女”桜花だ (ここで、おっさんが外国人、少女が日本人であるというところに、 夢想甲殻類・木村のサービス精神を感じていただきたい)。 物語はメイズと桜花それぞれの視点で進行するのであるが、 夢想甲殻類・木村はここでだらだらとストーリーに筆を割いたりはしない。 物語は、小気味のいい文体でのみ進行する。 特に見ものなのが戦闘シーンである。 切れ味のよい短い文章でテンポよく描写される戦闘シーンは、 眼前でそれがまさに起こっているかのようなスリルとリアリティを与えてくれる。 またストーリーで描かれていないぶん、 その裏にある「メイズと桜花の物語」を期待してしまう。 あえて描かれていないものなんて……古今東西いかがわしいことばかりじゃないか。 例えばこの小説の文体に見てとれるようなテンポで、リズムで、拙速に、大胆に、 おっさんは少女を抱いたかもしれない。 それは事実ではない。想像にしてもアナザーすぎる。 それが妄想と呼ばれるものだとしても、 妄想を与えてくれる小説こそ良作だということは信じて疑わない。 | ||
タイトル | cigar(前編) | |
著者 | 木村凌和 | |
価格 | 200円 | |
ジャンル | ファンタジー | |
詳細 | 書籍情報 |
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これはいつかの私たちの物語かもしれない。 地球という星を離れ、新たに生きる星を探して長い旅に出る。 見つけ、降り立った星が、剣と魔法の世界であったら――? だから私はこれをファンタジーではないものとして読んだ。 男性ならカズキに、女性ならアカリに重ねて読めば、 細かく書き込まれた世界設定は十分なリアリティを与えてくれる。 あなたなら異星の巫女・ティルにどう接し、 どのように答えを導き出すだろうか。 そんなふうに考えてみてもいい。 どうやら簡単な物語ではなさそうだ。 きっと、少し長くなることだろう。 私が読んだのは詩製1巻で、 ようやく星に降り立ったところで物語は始まったばかり。 彼や彼女は、航空母艦あけぼしの人間は、異星の人間とどのように接するのだろうか。 異星の人間が戦う魔族と和解できるのだろうか。 魔龍との再戦はあるのだろうか。 消極的な期待ではあるが、ハッピーエンドにはならないかもしれない。 これは「共生」に一定の解を与える物語だ。 カズキやアカリの視点は侵略者のそれである。 ふたりが「あけぼし」の方針に従順であることも見て窺える。 ひとつ、希望と呼ぶにはあまりにもカタストロフィックな要素を挙げるとするなら、 カズキがおそらく、異星の少女・ティルに恋心を抱いているであろう点だ。 恋愛はしばしば物語における不確定要素となる。 多くの神話がそれによって悲劇と化したように、 もしかするとふたつの星の神話「神域のあけぼし」も、 カズキとティルの関係によっては、同じ終着点を見いだすかもしれない。 ふたりの関係の進展と、登場人物たちの心の行方に注目したい。 ハッピーエンドにはならないかもしれない、と記した。 しかしもし仮にハッピーエンドになるとしたら、きっとそれは、 ふたつの星をまたぐ全ての登場人物に例外なく与えられる祝福だ。 そんな共生がもしあり得るとしたら、物語を越えて希望となる。 | ||
タイトル | 神域のあけぼし(試製1巻) | |
著者 | 夕凪悠弥 | |
価格 | 500円 | |
ジャンル | ファンタジー | |
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こわいという感情について考えた。 決して前向きな感情ではないのに、どうしてそれを求めてしまうのか、 そして、その感情を得たあとにどうしてこうも気持ちよくなれるのかについて考えた。 「赤目のおろく」は「こわい」小説だった。 あまぶん公式推薦文では10冊を越える良作を読んできているが、 ここまで「こわい」小説はなかった。 あまぶんのみならず、ここ数年で読んだ小説を振り返ってみても、 これほど「こわい」小説は記憶にない。 「こわい」小説であるという点については、 本作の表紙を見ればある程度予期してもらえることかと思う。 また、時代小説と怪奇小説が合わさったような構成も、 「こわさ」に寄与していることだろう。 まず、テーマが目玉である。 おろくが目玉屋で赤い目玉を手に入れるところからこの物語は始まる。 おろくが出会う人物、触れる人物、すれ違う人物、 いずれも何処か底知れぬ「こわさ」を持った人物ばかりだった。 決して悪いひとたちではない。 たぶんに人間じみていて、いいところも匂わせていて、しかし、間違いなく「こわい」のだ。 「こわい」というのは、 それが自分のうかがい知れぬ深淵を宿しているからそう感じるのだと思う。 「赤目のおろく」の物語も人物もそうだ。 端的にいうなら、淵の向こうに「死」が佇んでいる。 「赤目のおろく」は、「死」を身近に、 それこそ手の届きそうなくらいの場所に感じられる小説だ。 それでいて、読後感は爽快だ。 指先でかすか触れた「死」の感覚がそうさせているのだと思う。 しかしそれはスーサイダル・テンデンシーではなく、むしろその逆、 「生」に対する愛おしさだ。 それがこの小説を読み終えたあとの、あたたかい感情の正体だと思う。 「こわい」という言葉は「かわいい」と語感が似ているように、 このふたつの感情は近いところにある。 「かわいい」は「可愛い」と書く。 愛す可き小説であり、 また愛す可きなのは、 この小説を面白いと思えた自分自身なのだと本作は教えてくれる。 | ||
タイトル | 赤目のおろく | |
著者 | 三谷銀屋 | |
価格 | 400円 | |
ジャンル | ファンタジー | |
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よい小説であるかどうかは、最初の数行を読めばわかると思っている。 ある読者は「タイトルを見ただけでも分かる」と言っていて、さすがにそこまでは自信ないけれど。 とにかく「ペルセウスの旅人」を開いてわずか数行、いきなり世界へと引き込まれた。 最初に得た感覚は、「透明感」だった。 そしてその「透明感」は、ついぞ失われないまま170数ページ先の結末へと至った。 この「透明感」は何処からくるものだろう。 透明な世界ではあるけれど、世界観がそれを与えるのではない。 表現や文体も美しいものではあれど、この透明感を説明するには足りない。 だとすれば、透明感をもたらしたものは作者の持っている「この物語への矜持」ではないか。 作者の筆跡からは、物語への迷いを殆ど感じなかった。 ただ導かれるままに、短編集のような形をした作品たちは物語から物語へと歩みを進めた。 まるで、神様が書いたみたいだと思った。 それを、「神話」と呼ぶのかもしれない。 「ペルセウスの旅人」は、旅の話である。 ローレンとユーサリというふたりの旅人が、 ときにはふたりで、あるいはひとりで、 様々な人々とのちいさな出会いと別れを繰り返す物語だ。 ひとつひとつの物語は短くて、それでもひとつひとつの物語が、 あるいは現れる人物が、しっかりとした役目を持っているのが分かる。 役目を持つということは、生きているということだ。 この作品は旅をきっかけにして、人生を語る。 この作品の印象的なモチーフとして「時計」がある。 規則ただしく回転を止めない時計は、繰り返される短編そのもので、 それはわたしたちの人生とも相似する。 旅をしたくなる小説だ。 何処へもいく宛てなく、強いていえばユーサリのようにちいさな「理由」だけを携えて、 探しものをしたくなる小説だ。 ローレンはユーサリに言った。 「僕を、君が選ぶんだよ」 「いつか必要になる。君が選んだんだということを、君が必要とするときがくるんだ」 本を読むことだって、旅みたいなものだ。 読みたい本を、君が選ぶんだ。 そうであったということが、いつか必要になるかもしれない。 そうして選ばれた本が「ペルセウスの旅人」であったなら、私は嬉しい。 | ||
タイトル | ペルセウスの旅人 | |
著者 | 佐々木海月 | |
価格 | 600円 | |
ジャンル | ファンタジー | |
詳細 | 書籍情報 |
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「猟奇的・暴力的・性的表現を含みます」ということは、 まずエクズキューズとして書いておかなくてはならない。 これは推薦文だからだ。 推薦文は「おもしろいか」「おもしろくないか」一次元で表すものではないと思っている。 それよりは、二次元、三次元、あるいはそれ以上の多次元空間の趣向において 「こういうひとに向いてるよ」「こういうひとに読んでほしいな」と、 ベクトルを与えるもの、それこそが推薦文だと思っている。 さて、本書「僕はここから出られない」は、 どういうひとに推薦すべきであろうか。 「寄宿舎BLアンソロジー」と銘打たれているとおり、寄宿舎を舞台にしたBLだ。 BLとは、ボーイズラブの略、男性同士の、主には少年同士の性愛をテーマにした 文学の一ジャンルである。 かつて私もBLの文芸同人誌ばかりを集めた「BLフェア」というものを企画したことがある。 その際、購入された方は9割以上が女性だった。 BLは、女性だけが読むものであろうか。 仮に男性が読むとしても、少なくとも内包する女性性において好まれ、読まれるものだろうか。 これは反語である。 優れたBLはセクシャリティを問わない。 優れた小説がジャンルを飛び越えるのと同じくらい、当たり前のことだ。 もちろんBLによっては、限られた輪のなかでだけ好まれ読まれるものもある (決してそれが悪いというのではない、むしろ王道だろう)が、 輪を飛び越える例外作品もある。 この「僕はここから出られない」は、そのタイトルに反して例外作品かもしれない。 美しい書籍なのである。 男性同士の退廃的なつながりが美しい。 ゆみみゆ・宇野寧湖・まゆみ亜紀の三名の方が それぞれ短編を書かれた作品集なのであるが、 ひとりひとりが「美しい」という要素を解釈し、適切な表現を吟味して書かれたものであるように見える。 ゆみみゆ作品「むしかご」は、 ともだちの身体をちぎって自分にくっつける<むしとり>というあそびを耽美的に描いている。 宇野寧湖作品「湖畔の記憶」は、 ブーブリーという未確認生物にまつわる秘め事を 多重に組み込まれた伏線をほどきながら語っている。 まゆみ亜紀作品「スピラ」は、 スピラという器官を持ちやがて兄にその身体を捧げなくてはならない少年の懊悩を 衝撃的なラストシーンで飾る。 どれひとつとしてハッピーエンドはない。 だから「僕はここから出られない」なのだ。 物語は終わらない。 続きは読者に託されている。 この作品を選ぶひとは、きっとそれだけの審美眼を持っているひとだと思うから。 | ||
タイトル | 寄宿舎BLアンソロジー「僕はここから出られない」 | |
著者 | 宇野寧湖、まゆみ亜紀、ゆみみゆ | |
価格 | 700円 | |
ジャンル | JUNE | |
詳細 | 書籍情報 |
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「曲を作るときは死かセックスのことしか考えてない」と言ったのはスピッツの草野マサムネだった。 同じように、死とセックスをはらんだ創作物をしばしば見かける。 その多くは良作である。「タフタの繭」もそうだった。 いや、正確に言うならば、この作品からは「死」の匂いだけがした。 そういう創作物はあまり記憶にない。 ただ静謐と、死のことだけがうつくしく描かれていた。 「死の匂い」、といわれて、何を想起するだろうか。 晩夏の夕暮れのアスファルトの匂い、 脱脂綿にふくまれたオキシドールが乾く匂い、 終電を逃した駅のホームに吹く夜風の匂い。 おおむねそれは、「喪失」に関わるものだろう。 しかし「タフタの繭」が与える「死の匂い」はそうではない。 青々しく茂る植物の匂いだ。 古いビルの一室を埋め尽くす植物のむせるような生々しい匂いだ。 その場所こそが、「タフタの繭」の始まりであり、終わりである。 その「植物の部屋」を舞台に、物語は進行する。 その部屋のなかでは男性が心の<調律>を行っている。 誘われるまま、主人公は彼のセラピーを受けることになる。 セラピストは、匂いをテーマに主人公に夢を与える。 夢は現実であり、現実は夢であり、互いに影響を与えるものだと彼は言う。 しかし主人公が見るのは悪夢ばかりだった。 最後に救いを求めた匂いは、もちろん極上の夢を与えてくれる――。 主人公が最期に求めた匂いと、おそらく同じものを私はこの小説から感じた。 「植物の部屋」に行ってみたいな。そう思ったのだ。 セラピーを、心の<調律>を受けてみたいな、そう思った。 この小説のしずかで端正な描写は、 部屋の様子を、セラピーの様子を、克明に想像させ、 私をその場所へといざなう。 それは想像でしかない。 ただ、夢と現実が繋がっているように、 小説のなかの世界と私の世界とは繋がっているはずだ。 いずれ私は小説のラストシーンへと行き着く。 私だけじゃない、誰だってそうだ。 それはハッピーエンドと呼ばれていいものだと思う。 そうでなければ、ネバーエンドだ。 うつくしい文章を求めている人にこそこの作品を送りたい。 この作品は、そんなあなたの弱さを救ってくれるだろうから。 | ||
タイトル | タフタの繭 | |
著者 | 灰野 蜜 | |
価格 | 900円 | |
ジャンル | 純文学 | |
詳細 | 書籍情報 |
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ミズカ、ヨリオ、マイという三人の子どもたちが、 サンヤー号という船に乗って、冒険をするファンタジー小説だ。 物語の舞台にはさまざまな国があり、さまざまな種族がいて、 ある面ではうまくやりつつ、またある面ではうまくやれず、 ――それはちょうど、わたしたちの世界と同じように――、 必死に生きようとしている。 三人の子どもたちを乗せたサンヤー号は、 大海を通じてそんな世界のなかをとおりすぎ、 いろんな人たちや出来事と出会う。 船から降りて出会うひとたちも、船のなかにいる乗組員たちも、 みんな<事情>を抱えているのが印象的だった。 <生きる事情>とでも言うべきだろうか。 誰もが苦しそうで、必死で、 それなのに誰もが自己中心的ではなく、やさしかったのが印象的だった。 例えではなく戦いのなかにいるひとたちが、 どうしてこうも他人にやさしく寄り添えるのだろうか。 それはもしかしたら、作者の希望なのかもしれない。 作者はこの物語を書くために十年近い年月を要したと知った。 この作品は作者の生きる姿そのもので、 からくも希望を持ち続けた作者の十年の記録なのかもしれない。 だから、やさしくて、眩しい。やさしさが眩しい。 推薦するにあたって言いたいのは、 「目を逸らさないでほしい」ということ。 本気で書かれた作品には、本気で応えてほしい。 この作品は、子どもたちに読んでほしい。 大人たちであっても、十年前の心で読んでほしい。 十年間を巻き戻すことができれば、あなたはそこに、希望を見つけるはずだ。 | ||
タイトル | Cis.2 初版 サンヤー号にのって | |
著者 | 新島みのる | |
価格 | 800円 | |
ジャンル | ファンタジー | |
詳細 | 書籍情報 |
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さて、豚である。 豚は非常に知能が高い動物として知られている。 鏡像を理解できる数少ない動物であり、 犬を凌ぐ、チンパンジーに比肩するほどの知能を持っているとの一説もある。 知能を根拠にしてイルカを食べることに忌避を示す人々を否定するわけではないけれども、 私たちが食用にしている豚だってそうだ。 屠畜されるときに、気持ちがあるのだ。 チンパンジーは人間でいえば3~4歳くらいの知能を持っているとされている。 チンパンジーと豚が同レベルの知能を持っているという説を採用するとして、 たとえば豚を食べるという行為は、人間でいえば3~4歳の――。 いや、豚が人間なのではなく、人間が豚なのかもしれない。 私たちは、みな、等しく。 「THE CULT」は、カルト宗教を描いた小説だ。 登場人物として、アルコール依存により不祥事を起こす教師の花崎、 世情に興味を持たないフリーライターの三江、 定年後に妻を二度失った米田、 ある贖罪すべき過去を抱えたホームレスの油井……と、 カルト宗教に孤独を埋められるにふさわしい面々が教祖・幸田の下に集まる。 そのカルト宗教で崇められるものは、“少女”だった。 殆どしきたりや儀式らしいものやお布施すらもないその宗教のなかで、 たったひとつ信者に課せられた禁忌は「少女に恋をしてはならない」というものだった。 崇拝や信仰は相手に虐げられることに快感を感じる。 しかし恋慕は違う。恋慕は、相手を征服することに快感を覚えるから。 それこそが、そのカルト宗教の、狂気と憎悪と愛情に満ちた設立主旨を説明していた。 エンタメ小説である。 ストーリーが進むにつれて次第にほどかれていく綿密に練られた伏線の妙は、 読者を作中世界へと没入させてくれる。 ただエンタメ小説なら必ずあるはずの着地点がこの小説には存在しない。 最後、男が空を見上げる場面で、この小説は終わる。 だから、このカルト小説は私たちの世界と地続きな気がしてしまう。 それがこのカルト小説の背筋が凍るような怖さだ。 この小説を読み終えた後、私たちは空を見上げてしまう。 まるでそこに誰かがいるように。 逆さ十字を空から見下ろせば、正しい形に見えるように。 少女は私たちを見ている。 決して、恋をしてはいけない。 狂気と憎悪と愛情に満ちた小説だった。 いろんな感情が入り混じる読後感を説明するのは難しい。 ただ一言でいうならば、屠畜される豚の気持ち、だ。 | ||
タイトル | THE CULT(再版) | |
著者 | 神坂コギト | |
価格 | 500円 | |
ジャンル | 純文学 | |
詳細 | 書籍情報 |
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いつか「あまぶん」を6月に開催する機会があれば、 「JUNE BRIDE」というサブタイトルをつけてやってみたい気持ちがちょっとある。 もちろん「あまぶん」は「JUNE」ジャンルだけのイベントではないし、 私個人のイベントでもないから実現はしないのだろうけども。 6月はジャンルとしての「JUNE」を想起させるほど、美しい季節である。 多少湿気てはいるけども、それも寂しさの表現だ。 私の台湾人の友人に「JUNE」という子がいた。 彼女も美しい女性で、六月の中国語読みで「リョウユエ(liuyue)」と呼ばれていた。 もちろん、リョウユエは腐女子であった。 とにかく「あまぶん」には良質の「JUNE」が多い。 「あまぶん」では「JUNE」を「異性愛ではないもの」と定義しているのだが、 各出店者・各作家がそれを個々に解釈し、吟味して、 それぞれに自信の持てる「異性愛ではないもの」を出してきているように思える。 夜間飛行惑星(美しい出店者名!)から頒布される「ノスタルジア」も、 そういうJUNEのうちのひとつだった。 俳句・小説・短歌が交互に楽しめる、とてもおいしい書籍である。 いずれにもそれぞれの魅力があり、 読者の好みを刺激してやまないのであるが、 特にここでは短詩(俳句・短歌)に注目したい。 面白いのは、それぞれにテーマが与えられている点だ。 バレンタイン・村を焼く・明日、世界が終わる・ノスタルジアなど、 見るからに魅力的な食材がテーマとしてでんと並べられ、 それが実駒さんによって、さまざまな歌や句として料理される。 作品が料理なら、組版は盛り付けみたいなものだ。 余裕をもって美しく繊細に設定された組版により、 料理としての作品はいっそうこの効果を増す。 私はこの書籍を読んで、おもしろい、よりも先に、おいしい、という感想を持った。 食卓というものは、「JUNE」において大切な要素のひとつらしい。 異性愛ではないもの、を交わした「JUNE BRIDE」たちが最初に食べる食事も、 やはりこの「ノスタルジア」のように、おいしく、多少ものがなしいものなのだろうか。 そんなことをノスタルジックに想像させてくれるような一冊だった。 | ||
タイトル | ノスタルジア | |
著者 | 実駒 | |
価格 | 500円 | |
ジャンル | JUNE | |
詳細 | 書籍情報 |
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雨の日は退屈だ。 窓の外を見ると灰色の世界にはしっかりと斜線が引かれてあって、 誰と約束したわけでもない外出の予定を、 すとんと切り落とすように自分の中でだけキャンセルする。 湿気がむわっと立ち上る畳敷きの部屋、 冷蔵庫から取り出した麦茶をグラスに注ぎ、 汗をかかせて。 さあ、何をしよう? 本でも読もうかな。 横着にも寝転んだまま、本棚に手を伸ばす。 コハク燈「小夜時雨」は、そんなときに読みたい小説だ。 手持ち無沙汰な雨の日に、寄り添ってくれる一冊だ。 短編集である。 瓜越古真/笹波ことみのふたりが、 それぞれ「二人傘」「傘の中の、僕の世界」/「海の戯れ」「通り雨は珈琲の香り」と、 二篇ずつ雨に関する短編を掲載している。 決して特別なことなど起こらない、 ただしとしとと降り続く雨のように、寂しい物語ばかりだ。 悲恋が多いかもしれない。 そうだ、雨の日に感じる音やリズム、匂い、目に映る色合いは、失恋のそれだ。 「海の戯れ」だけは、雨があまり主張していない。 その代わりに、海が出てくる。 イルカと少女の、やはり悲恋の物語だ。 雨の向こうの世界は、海に繋がっている。 雨の日の、ずっしりと沈み込むような重い湿気は、まるで海の底にいるかのようだ。 いきぐるしいイルカと少女の物語は、最後、 「少女が海にかわる」ことで終結を迎える。 まるで息継ぎのように、ラストシーンのイルカが幸せそうであったのが印象的だった。 イルカは言った。 「悲しかったけど、寂しくはなかった」 そういうふうに、雨の日を愛せたらいい。 少女が海なら、雨もまた少女なのかもしれない。 雨に包まれる時間を、幸せに感じさせてくれる一冊だ。 | ||
タイトル | 小夜時雨 | |
著者 | コハク燈 | |
価格 | ¥700 | |
ジャンル | 大衆小説 | |
詳細 | 書籍情報 |
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辺境の地にぽつんとひとりで立っている、さびしがりな灯台の話。 灯台の擬人化とでもいうのか、 灯台がにんげんみたいに見たり話したり感じたりする様子を追うのはとても楽しい。 続きが気になって、どんどんページをめくってしまう。 灯台がひとりの男性に見つけられ、じぶんの「孤独」を埋められる最後まで、 一気に読み切ったあとふと気づく。 これはもしかして、すごくさびしい話なんじゃないか。 灯台の擬人化じゃない。その逆なんだ。 灯台の姿は、もしかしたら読者そのものなのかもしれない。 あなたは、さびしがりではないですか? そんなことを尋ねてみたい。 あなたの孤独を埋めるための方法を知っていますか? 訊いてみたい気がする。 この物語を読み終えた、全てのひとに。 灯台にとっての男性のように、 あなたのいる辺境の地まで会いに来て、 「いつもお疲れさま」というあたたかい(!)言葉をかけてくれるひとは、 あなたにはいますか。 そんなことは訊けないけれど。 そもそも、そういう相手に会えることが幸せなのか、不幸なのか、分からない。 だって物語は、いつも寂しいものだと思うからだ。 ただ、もしもそういう人に会えることがあれば、 灯台がそうしたように、レンズの光をすこし強くしてみてほしい。 灯台にとっての光があなたにとって何なのか、 それは読み終えたあとに気づく筈だ。 さびしがりのひとに読んでほしい本。 さびしさを埋めるためではなく、もっとさびしくなるために、読んでほしい本。 | ||
タイトル | さびしがりな灯台の話 | |
著者 | そらとぶさかな | |
価格 | 400円 | |
ジャンル | ファンタジー | |
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短編が8編掲載された作品集である。 冒頭の「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」から、 読者はこの作品にしかない幻想世界へと、落ちる。 この作品は、危険だ。 しかし怖さはなく、むしろ安心感すら与えられる。 ほんとうに危険で美しいものに出会ったとき、 嘆息しながら持つ感情は、安心、それしかない。 諦念にも似ているかもしれない。 であればそれは、何に対する諦めだろうか。 生きることにも似ていて、 書くことにも似ていて、 しかしもっと正確に言うならば、 理解すること、なのかもしれない。 ポエジーに溢れた文体だ。 シーンからシーンへ、物語から物語へ、 あたかも詩のように軽々と飛躍する。 そんなところを飛べるのか、 意味を踏み外してしまいはしないか、 というあたりを、実に易々と着地を決めてみせる。 サーカスか、ギャンブルか、 いや、文学だ。 純文学の体をとりながら 「人間」を超越したところで描かれる世界は、 また別の文学の名前を与えられるべきかもしれない。 この作品を書かしめるものを「才能」と呼ぶには安易にすぎる。 何故か毎年現れる「10年に1度の天才」のように、 「才能」という言葉はもうその希少性を失いはじめている。 だから、私はこの筆致を「魔法」と呼びたい。 今ここにしかない、他のどこにもない、 幻想世界を作り出せる術は、「魔法」と呼ぶしかない。 「魔法」をかけられた読者はどうなってしまうのだろうか。 それは誰にも分からない。 ただ、変化する、ということだ。 読むことで人生が変化してしまうような作品に 一生に一冊でも出会えることは 読書の冥利であり、劇薬でもある。 できれば、後悔してほしい。 後悔のない人生に意味がないように、 後悔のない読書もまた退屈なのだから。 | ||
タイトル | ウソツキムスメ | |
著者 | 泉由良 | |
価格 | 600円 | |
ジャンル | 純文学 | |
詳細 | 書籍情報 |