「444文字以内ぐらいで創作を投稿しよう」企画444書。これまでお題「スープ」「文房具」でたくさんの投稿をいただいており、感謝したい。
444書は、あまぶんに書籍を出店していない方でも参加できる点が特長で、誰でも「お題にそって書く」ことを楽しめる。
本稿では、投稿された作品のうち、「書籍をあまぶんに出店していない方」からの良作を紹介する。
まずはお題「スープ」にて。
「完璧な文章などといったものは存在しない。 完璧な絶望が存在しないようにね」
は村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」の冒頭の一文であり、
作家・村上春樹を文壇に上げた最初の一文とも言えるだろう。
それは村上春樹に書かれるとき、デビューから年月を経た今であっても、鮮烈な一文でありつづける。
「完璧なレシピ」を読んで、ふいにその一文を思い出した。
空豆さんは444書に多くの文章を投稿してくださっている。
ショートショートでは凝った展開を用いれば書きやすいが、
空豆さんの文章は、きわめて自然である。
自然でありながら、「読みやすく」「おもしろい」という、排他の関係にありえる2点を両立させている。
特に本作「完璧なレシピ」が好きだった。
素朴な文章のなかに浮き上がるのは、「美味しそう」という味覚である。
「読むことで食べる」という、希有な体験をさせてくれる良作だった。
444書で霜月ミツカの作品が読めるとは思わなかったので、おどろいた。
いくつかの賞を取っている保証された作家である。
なおあまぶんでは「文芸誌オートカクテル耽美」に作品を寄せているもようだ。
短編・中編・長編ではそれぞれメカニックが異なり、すべてにおいて卓越した作家というのは多くないように思える。
霜月ミツカは444文字の超短編においても、霜月ミツカでありつづけた。
「恋人が出た後の風呂を眺めながら、あのひとの出汁って美味しいのかなと考えた」という冒頭の一文だけで、
これは霜月ミツカの小説だと分かる。
「オリジナリティ」とは「新しい」とも言い換えることができる。霜月ミツカの小説は、つねに新しい。
「スープ」といえば「生命」と枕詞を置くのがスタンダードのひとつだろう。
スタンダードということは、書き方によって(スープになぞらえていえば料理の仕方によって)
いかようにも色合い(味わい)を変える点が魅力になる。
さて、いぐあなさんの作品である。
444書にはめずらしいサイエンティフィックな作品になった。
444文字以内という短文でありながら、おおきな物語のはじまりを予想させる意欲的な作品である。
もちろん物語の続きは書かれていないわけだが、それを各読者の想像のなかで完結させる楽しみがあっていい。
タイトルがおもしろかった。
スープと麦茶!?汁オン汁やんけ…。
会話文で進行する展開がここちよい。
ふたりのほほえましい関係がつたわってくる。
熱いものと冷たいもの。
愛のようなものを描いた、やさしい作品だと思う。
おお…たまねぎの擬人化。
なんと攻めた作品。
そういうお題の消化の仕方もあるのか。
たまねぎのスープを飲むと涙のあじがするのは、
そういう理由があったのかもしれない、と、
日々の食卓や生活に、感傷をもたらしてくれる、
作品をとびだしてうったえてくる良作。
とてもシンプルなタイトルである。
でも「スープ」にあたえるべきタイトルは、それでいいのかも(それがいいのかも)しれないなあ、と感じた。
前段と後段で別の作品になりながら、相互的につながっているのがおもしろい。
ふたつの視点から立体的になったイメージは、
「スープの皿で息継ぎした」の一文に支えられて、
プールこそスープであるというゆたかな像をあたえてくれる。
いいタイトルだなあ、と思う。
このタイトルは「スープ」以外の題材にも適用できるのだけれど、
「スープのようなもの」が共通してもっているメタファをタイトルだけでかもしだしていると思う。
そして作品も、とてもいい。
444文字のなかで、先生と俺のどこかややこしい関係がつたわってくる。
それを表象するのが自動販売機のコーンスープだ。
缶のスープは無機質でありながら、その無機質さゆえに、
生活のなかにあらわれるとその裏腹にある生々しさをあらわにする。
スープのような、体温をかんじられる作品だった。
今回の「スープ」の444書では会話文の多い作品が目立ったが、本作には会話文がない。
タイトルもどこかどっしりとしている。
腰を据えて書かれた、純度の高いタフな作品だと思う。
長編の一部を抜き書きしたような印象を受ける作品で、
なるほど、444書にはそういう書き方もありなのだな、と膝を打つ。
この作品の前後にはおそらく長いストーリーがある。
プロモーション・ヴィデオを観ているかのように、
あるいは街頭のデジタル・サイネージを観ているかのように、
この作品のまえで足を止めてしまい、なにかを思い出そうとする。