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あまぶんウェブショップ

販売は2021年7月31日をもって終了しました。
たくさんのご注文をありがとうございました。
  • 桃の夢・M氏の幸福

    泉由良
    600円
    純文学
    ★推薦文を読む

  • 「大切なぬいぐるみ」への心をモチーフに4篇を収録した短篇集。
    あなたには大切にしていたものはありましたか?
    それは、今もそばにありますか、もう忘れましたか?
    あのとき存在していた友情、愛情。
    または孤独。
    決別してしまった友だちに、10年以上振りにすれ違った、それは、ぬいぐるみを持っていなかった子の命日の日。まさかね。女の子の友情、2020年の結末。

試し読み

 夢をみていた。
 また、あの夢をみた。近頃よくみる夢。
 
 珈琲に牛乳を注いで、スプンでくるくる混ぜながら、ぼんやり考える。あの子が出てきた。夢のなかで、あの子とおやつを食べた。でも、あの子、誰なのだろうか、それが思い出せない。赤いマグカップにくちをつける。まだ少し眠い。朝は、珈琲をのまないと、眠くてあたまが働かない。今日もカフェオレをのむうちに目が覚めてきたのだろう、様々な用事のことを思い出してきて、今日の仕事の段取りを考え始めた。今日は。残業かも知れないな。
 
 ここのところよく夢をみる気がする。夢はいつもみているけれど憶えていないことが多いのだという話を聞いたことがあるけれど、その考え方で云うと、最近よく夢を憶えている気がする。別に眠りが浅いわけではないと思うのだけれど。毎日憶えているあの夢は、けれども悪い夢ではなくて、わたしは夢のなかで幸福な気分だ。楽しく過ごしている、誰かと一緒に。でも、その誰かが、誰なのかだけが、憶えていられない。何度も同じような夢をみるのに、目覚めると文字が消えかけて不明瞭な手紙のように、霞の向こうにいってしまうあの子のこと。あの子、誰なのだろう、思い出せない……。
  
 毎日、色々なことがあって、そして毎日、色々なことを忘れてしまう。
 そういう上書き更新みたいな仕組みで、過ごしている。
 何でもないことだ。
 時が流れると、あったことが、なくなっていく。
 今はもうない。
 忘れてしまったことは、ない、ということなのだろうか。

   

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記憶を指差す

すぐれた小説を読んだとき、読者は言葉や物語を受け取るだけでは済まず自分の中の何かを差し出さねばならない…と思っていて、本作はわたしにとってまさにそういう一冊でした。「誰かに話したかったけど話せなかったこと」を打ち明けたような気持ちになりました。
本当はずっと誰かにきいてほしかったけど、誰に、どうやって話せばいいのかわからなかったこと。ふだんはすっかり忘れて過ごしていて、たまに思い出しても平気な顔をしていて、でもたしかに痛みや後悔はあった。

ぬいぐるみの多くは、笑ったり怒ったりの顔をしていなくて、表情がないような顔であらかじめ作られており、持ち主はそのときどきの気分でぬいぐるみになにかを見出します。縫い止められたプラスチックの目玉や糸の口に、みずから動くことのない布の体に、なにかを見つけ、託し、友だちになったり家族になったりします。たんに飾り物である場合もあるし、長いこと飾り物だったものがふとべつの顔をし始めることもある。それは他人に説明してもあんまり伝わらないかもしれない、持ち主とぬいぐるみの個別の関係です。
誰にも話せないような記憶にそっとふれられたような気持ちになる本作が、ぬいぐるみをモチーフにしているのは、とても見事なことだと思います。そうしてそれは、狙ってそう書かれたのではなく、どこからか魔法のように差し出されたもののように思います。心の奥のやわらかいところがつながりあったような。心の奥とは自分の内部ではあるけれど、はるか遠く、手ではさわれない場所で、きっと小説の言葉だけがそこを開くのだ…などと考えます。魔法とは筆力と言いかえてもいいと思います。

記憶とは、脳のどこかに格納されていて都度取り出すようなものではなく、想起しようとするたび生成し続けるものだ…というようなことを港千尋『記憶 想像と想起の力』で読んだのを思い出します。あるいはロランバルトの『明るい部屋』。撮影は指差す行為でしかなく、語るのは写真を後から見る者の役目だ、という。
本作は、読者の心の奥、誰にも見せなかったし自分でも忘れていたようなところをそうっと指差します。すると読者はあれこれと心の中をほじくりかえし、すっかり打ち明け話をしたような気持ちになるのでしょう。

オカワダアキナ

ヘビーローテンション

「純文学とはなにか?」と問われた山崎豊子がこう答えていた。

「私小説のことですよ」

純文学の定義はよく問われるFAQで、なかには「そんな定義はない」なんて過激なことを言う勢もいるのだが、山崎豊子の回答はもっともシンプルかつ本質を突いたものであるように思う。
なお、この問いの続きには「それは個人小説のことですね。それは中国にはないです」という、中国人作家からのレスポンスがあるのだが、その是非はともかく。

泉由良は純文学作家であり、この作品も例外ではない。私の書いた純文学など、泉由良に言わせれば「それは私のライトノヴェルですね(にっこり」と言われてしまいそうだ。これは純文学とラノベの、性質の差を捉えたものであり、どちらがうえか、というネット掲示板にありがちなオークションをするつもりはないのだが、ライトノベルがその名のとおり「ライト」なら、純文学は「ヘビー」といっても、そう間違ってはいないだろう。

重いのだ、泉由良の純文学は。想いが重い。

「桃の夢・M氏の幸福」は、詩も含めれば5篇が納められた短編集だが、とりわけ「さよなら楓ちゃん」は、重い。タイトルからして重い。文章も重い。女子高生(大生)の青春物語の形を取りながら、描かれているのは曇天のような、鈍色の物語である。京都は曇天が似合うと思う。鈍色の空を背負った京都タワーを見ていると不安になる。あのしたで暮らした、不安定な推定少女の物語だった。

純文学作家がよく訊かれる問いに「これは実体験ですか?」というものがある。私小説を純文学のひとつの定義とするならば、この問いを受ける作品は良作だろう。なおこの種の問いは「ご想像にお任せします」と応えるのが正解らしい。泉由良に尋ねてみたい気がする。そう応えさせてみたい気がする。そして答えを求め、京都駅に降り立ち、あの京都タワーを見上げてみたい気がした。かつて少女は、ここで見たのだった、桃の夢を、

にゃんしー

不確かな時代に寄って立つもの

 桃、甘美な果実であり、桃源郷に実る仙果。
 しかしその核(さね)は固くて苦い。
 本作は、そのような果実の夢だと言う。
 表題作『桃の夢』は言うに及ばす『M氏の幸福』のMは「モビカ」の頭文字であると作中で言及されているのだが、そうと分かってはいても「もも」のMにも通じている、そうも取れる。
 本作は四編の物語と一篇の詩で構成されている。
 各物語の関連は、はっきりとは見えてこない。
 関連はないはずだと思いつつも、読み進めていくうちに、各編が微かに呼応していることに気づく。
 なにかが引っかかる。
 そしてそれは『M氏の幸福』で意外な人物が登場することで輪郭を備え、最終話『さようならしずるちゃん』によって呼応していた「なにか」を知ることになる。
 それが柔らかくとろけ、蜜の滴る仙果の「核(さね)」なのだ。

 ぬいぐるみ、少女、親交、別離……各編、響き合うモチーフ。

 幾重にも語られ、語りなおされるモチーフは、本作の重層低音として響き合い、終幕の「さようなら」、永遠に別たれた関係への別離の言葉、いまもなおたしかに繋がる関係と、やがて来る再会の予感をもって幕を閉じる。

 夢から覚めるためには、夢を見なければならない。

 本作はおそらく、作者がもういちど、かつての夢を見るための物語だったのだろうと、私は思う。
 まろやかで甘い仙果の奥に抱かれた、固くて苦い核(さね)を手にするために。

 となれば、次の問いは「なぜ、いまなのか?」だろう。
 なぜ、作者はいま、このゆるやかな『桃の夢』に区切りを付けたのか?

 不確かなこの時代に寄って立つものは、自身のたましいの奥にある『桃の核』、それしかないと、そう、作者は静かに見定め、信じている……だからこそであると、私は思っている。

宮田秩早