一 「渡り廊下の女生徒」
ドミレソ・ドレミド・ミドレソ・ソレミド。
授業の始まりを知らせる音階が、木造校舎の壁をわずかに振動させる。
それまでめいめいに過ごしていた四百四十五人の全校生徒は、それぞれの教室の中に吸い込まれていった。整然と並んだ机にお行儀よく仕分けされる。机ひとつぶんのスペースが、生徒ひとりに許された領域である。
俯瞰してみると、まるでパック詰めされた卵のように見えるだろう。卵からいきなり足が生えてきて、自らパック容器に収まらんと歩きだしたら気味が悪いに違いない。そんな感覚だった。
祐介は、階段の踊り場に座り込んで、チャイムが鳴り止むのを待っていた。次の五十分間は日本史の授業を受けるはずだった。といっても、学ぶべき単元が終わってしまったからと、教員の持ち込んできた大河ドラマ――次は第四話だったか――を放映するだけだろう。もはや授業計画にドラマの視聴を組み込んでるとしか思えない。
四十に差し掛かろうという年齢の担当教員は、まだ七月も始まったばかりだというのに、腕まくりしたジャージの裾から黒光りする肌をのぞかせている。本業よりも、自らが顧問を務める女子ソフト部の活動に執心しているのだ。やる気のかけらもない授業風景とは打って変わって、部活では別人のように怒鳴り散らかしているというのが、本人のなかでは渋いと思っている。無論、女子からの評判はすこぶる悪かった。理不尽な怒号をとばして部員を限界までしごいては、ぜえぜえと息を切らした女生徒がやっとで声を揃えて「はい」というのを、脂下がった顔で眺めて満足気にうなずくのだ。変態性癖の持ち主に違いない……などと、誰に咎められたわけでもないのに、日本史の授業に出席するべきでない正当な理由を次々と浮かべていた。畢竟、授業をさぼる口実があればなんでも良かったのだ。いま誰かに見つかったら、哀れな教員の洗いざらいを告発してやろうという気分だった。
本鈴の余韻がすぎると、それまで校内を包んでいたざわめきの気配が引き潮のように消える。
鐘の音は境界線を引くようにして、教室とそれ以外を分断していた。祐介はこの瞬間が好きだった。平日の真昼、授業時間だけは教室以外の校舎が異界に変わるのだ。自分の存在がどこか宙に浮いたような感覚。幽霊みたいにあちこちを飛び回って、舞台のセットをチェックするように、異界を歩き回る。
(続く)