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あまぶんウェブショップ

販売は2021年7月31日をもって終了しました。
たくさんのご注文をありがとうございました。
  • 天使の番

    桜鬼
    700円
    ほか
    ★推薦文を読む

  • 風情が、美が、情欲や人情に先行する……
    情景が語りだす旅の短篇小説、また或いは浮世からの解放

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  ×月×日

 昼食の後は殆どをゴンドラの上で過ごしています。毎回払う額を漕ぎ手と交渉して決めなければならないのが少し面倒ですけれど、歌手も陸の上では歌ってくれませんからこのくらいは仕様がないのでしょう。けれど、内輪で一寸噂にでもなったのでしょうか。今日ははじめに示されたその数字がいつもよりも低かったような気がします。


 素朴なトラゲットを捕まえて運河を渡り、いくつかの路地へと入り込んだところで私は迷子を自覚した。水路に掛かった台形の橋々がどれも同一に思えてくる。上りの段数だけでも五階分はありそうなその疲労が、じわじわと足裏に溜まっていく。壁の色味も窓枠も、似たようでいて全て違う。しかし道幅は狭く空も一本にくり抜かれ、ひとつ曲がり角を行くたびに西と東が反転する。硝子細工に封筒、便箋、インク、ペン、飾り窓の内側には手垢を見つけることもある。気まぐれに店内へ踏み込むと、知らず来た道を引き返す。時折トランクを鳴らして足早な、青ざめた旅客と行き違う。忙しなく彷徨う視線も虚しく上滑りしているようだった。その新鮮な視界を大して意識することもなく、そのままどこかへ発っていく。勿体ないとは思うけれども端から手に入るものでもない。知る筈の土地に居ながら懲りもせず道に迷うのは、方向音痴のひとつの特権なのだろう。時の区切りも土地の区切りもなくぼんやりとしている私の、何か遊戯のようなものである。樹海や山岳を歩く気であればさにあらず、街には車や舟がある。野ざらしのそこらで夜を越せれば行先の当ては広がるが、そこまでするほどのものでもない。雨の気配を孕んだ暗い曇り空だけが少し気がかりになる昼間、羽織ったコートの裾を遊ばせ時折吹く風に身震いをする。変速も減速もなくふと立ち止まっては傍に寄る。それは煉瓦の繋ぎ目であったり、マンホールであったり、蝶番の鉄さびであったりした。仰げば先程よりずっと広くなった空の道、雲は斜めに横切り流れている。ひとり、ふたり、景色に焦点の合わない地元の人たちともすれ違う。彼らはその目を僅かにこちらへ留めたきり、余所者には見飽きた風である。浸水しそうな予感もなく、潮が引き水位の下がった分だけぬめりがこびりついている。流れの向きはわからない。風に首をすくませてふと、革手袋を買おうと思い立つ。

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解釈はきっとひとつではない

 作中で起こった出来事は明白で、そこに分からない部分はないのですが、動機の解釈の難しい作品。
 ただ、もうそこは「かくあるべきもの」として読むのが正解かな、と思っています。

 音楽を探す彼女が旅人とともに行動することを選んだのは、なぜなのか。
 旅人は彼女のなにに惹かれ、みずからの何を乱されたと感じているのか。
 彼女の日記の最後の章の意味するところも、多様な解釈ができ、その解釈は、読者のそのときの気分で変わるような気がしています。
 行間から立ち上る街の風景、酒場に漂う酒の香り、そしてなによりも音楽を聴きながら、そのときの「解釈」を味わう物語。

 ラストシーンが美しい。

宮田秩早