誰しもの人生に幾度もの、忘れられない瞬間が訪れる時がある。
ひどく些細でありふれていて、そうとは簡単には気づくことの出来ないもの。
通り過ぎたほんのささやかな一瞬を懐かしむその時、手の中に光るちいさな星のかけらに気づくような。
せわしなく過ぎゆく時の流れの中で、人はいくつ、その奇跡に気づくことが出来るのだろうか。
僅かな湿り気をふくんだ秋風が、頬の上をかすかになぞる。そよぐ葉はすこしずつ色を帯びはじめ、光を遊ばせている。
小高い丘の上、まるで町のシンボルかなにかのようにそびえ立つ焦げ茶色の煉瓦作りの教会を前に、僕は思わずぼうっとため息を洩らす。
神への敬虔な信仰を持っているわけでもなければ、なにかしら懺悔したいようなことがあるわけでもなかった。視界が捉えた、この美しい建物を間近で目にしてみたい―突き動かされるようにいつしか脚は動き、目的地とは違うはずのこの場所へと赴いていた。
本来ならばきちんと挨拶をすべきなのだろうか、この場所を守る誰かに。ひとさじばかりのうしろめたさと、子どものような好奇心。ないまぜの感情に揺らされながら、名前も知らない誰かの墓石をぼうっと眺める。数十年前に時を止めたその人の墓前にはいまだまあたらしい花が供えられ、手入れが行き届いていることがありありと伝わる。
人がほんとうに死ぬ時は、その存在が誰もに忘れ去られた時だ―その言葉通りなら、ここで永劫の眠りに就く人々はみな、終わらない命を得た末の安寧を手に入れたと言えるのだろうか。
みようみまねでぶざまに手を合わせ、ずっしりと肩に食い込んだ旅行鞄を背負いなおしたその時、ふいに、視界の端を揺らぐ影に気づく。
風にそよぎ、かすかに揺れるやわらかそうな黒い髪、濃紺のシャツにくるまれたしゃんと伸びた背筋、光を跳ね返す澄んだ琥珀の瞳の奥には、あまやかさとともに、かすかな翳りが滲む。
「こんにちは」
ひときわ立派な墓標の前、ちいさく首を傾げるようにして彼は尋ねる。襟の高い濃紺のシャツにサスペンダー、首もとには森のような深い緑色のスカーフがさりげなく巻き付けられている。
歳のころはおそらくは、二十歳をすこし過ぎたところだろうか。