表題作冒頭部(抜粋)
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がたり、と視界が動き出してため息が漏れた。佐久間空港駅をのろのろと発車した列車はどこか軽々としている。地下を抜ける独特の喧噪から突然音だけが消え、景色は変わらず真っ黒、窓の向こうにはくたびれた男が黒縁の眼鏡をかけて座っているのが見える。黒いスーツ姿で黒い通勤鞄を置いているから、右手にある黄色の袋がただただ浮いている。大手CDショップの袋だった。
車両にはぼくと、ちょっと遠くに色の落ちた髪のひとびと、反対側にはぼんやりとヘッドフォンをしている髪の伸びた詰め襟、隣のシート列にこぎれいな恰好の女のひと、それくらいだった。おそらく女のひとは途中の山越駅で降りて、残りはぼくと同じく終点の潮間駅まで向かうだろう。もちろん勘だが、たぶん当たる。
去年の同じ頃、ぼくは潮間へと向かう列車に乗っていた。佐久間空港駅で後ろ半分を切り離すことを知らずに五両目に乗っていて危うく乗り遅れるところだったのを昨日のことのように覚えている。走っているのがふしぎなくらいのんびりと、列車は田んぼの中を抜け、商店らしきものが集まったと思ったら急に山林に入り、少し長いトンネルを抜けると色の薄いまちなみがぽつぽつと続いた先に潮間駅が見えてくる。千歳県の最果てのまち、潮間にぼくは今住んでいる。そしておそらく、このまちを出ることはないと思っている。
CDの中にある曲をぼくは知っている。それらがどのようにして生み出されたのかはわからない。だからかれらが叫ぶほんとうの言葉を聞き取ることは出来ない。けれど、きっと感じとってふれるくらいはできるだろう。だからきっと同じように、かれらに言葉の束を渡したっていいはずなのだ。かれらはぼくの言葉を読めないかもしれないけれど、ふれることならできるはずだから。
黄色い袋から出てきたかれらは海の底に沈んだまま何も言わなかった。ぼくも何も言わないことにした。列車が止まってこぎれいな女のひとが降りる。ここから先は、潮間市内の駅しかない。すぐに森に入って、長いトンネルを抜ければ、そこは。
明日になったら。
ぼくはかれが歌うそのフレーズを、まだ聞くことができている。