律子のクラスには不思議な男子生徒がいた。おおよその時間をひとりで過ごし、ときおり年不相応な顔で笑う。それを憂い、と呼ぶことを知ったのは、六月に実施された読書週間でだった。
あれがきっと、憂い、なんだ。
文章をなぞったとき彼の顔が浮かんでいた。目の前の席には他の生徒と同じような背中がある。でもやはりどこか、異質な雰囲気をまとっていると感じていた。具体的には答えられないが、きっと誰しも衣魚京介には同じ印象を抱いていると律子は信じていた。
衣魚、という名字はこの村に一軒しかない。代々魚女神社の神主をしている家系だ。その出自と彼の雰囲気とが相まって、少し浮いた存在だった。
事の起こりは夏休み前、終業式の日だった。
「衣魚くん」
宿題に必要な教科書を忘れて帰った律子は、放課後再び教室を訪れていた。静かな校舎には響きすぎる音を立ててドアを開けると、他に誰もいないはずのそこに一人いた。
「三枝さん、どうしたの?」
「衣魚くんこそ」
窓際のいちばん前が京介で、そのうしろが律子の席だった。
「私は、教科書取りにきたの」
机の中に手を入れながら話す。目当てのものはすぐ見つかった。
ほら、これ。
顔の横に掲げる。そうしてから胸に抱いて、用事はすんだけれどすぐには立ち去れない空気に気まずさを感じていた。
「衣魚くんも、忘れもの?」
絶対違うと思いながらも、律子は尋ねるしかなかった。そのとき、窓枠に後ろ手をついて腰掛けるようにしている彼の右上腕が
「ばれちゃったね」
陽の光にきらめいたのを見てしまった。視線と、隠しごとのできない律子の目でわかったのだろう。困ったように微笑みながら反対の手できらめきを覆った。
「三枝さんはさ、魚女池の伝説って知ってる?」
彼の腕から顔に視線を移すと、目が合った。
「もちろん。この村にいて知らない人なんていないよ」
小学生のときに授業で習う。住んでいる土地のことを知ろう、という取り組みがあった。しかしそんなものがなくとも誰もが知っている。魚女池があるから魚女神社なのだし、村民はみな氏子である。
「そうだよね。じゃあさ、あの伝説のこと信じてる? 本当だと思う?」
律子はすぐに答えることができなかった。抱えた教科書が弓なりになる。
「わ、わかん、ない。だってあの池で魚なんて見たことないもん」
ふたりがまともに会話をしたのは、このときが初めてだった。