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あまぶんウェブショップ

販売は2021年7月31日をもって終了しました。
たくさんのご注文をありがとうございました。
  • ミントマイナスマイナス

    オカワダアキナ
    700円
    純文学
    ★推薦文を読む

  • わたしたちは風とにおいの話をする。知っていることや気づいたことを教えあう。どこの団地の子も皆むかしからそうやっていて、風に息をのせて会話することだってできる。はじめからそういう人種や体質ってわけじゃない。生きのびるためそのように鍛え、磨く。風を嗅ぎ、息に声をのせ、肌の感覚を研ぎ澄ます。何かひどいことが起きたとき、大きな声や難しい言葉で叫べなくてもどうにかなるように。


    郊外の団地に生まれ育った「わたし」は母親と二人暮らし。五十歳を過ぎ、いまは物流倉庫で働いている。あるとき旧友とその娘の古着屋を手伝うことになり……。
    パートナーのいないレズビアンの話です。連帯できなくても友だちであること。友だちと別れること。

試し読み

 森でムースの角を拾うと小遣い稼ぎになるらしい。めったに見つかるものではないが、大きいものなら百ドル、いや五百ドルにだってなることもあるというから、男の子たちはムースが大好きだった。使いまわしの注射器で穴ぼこだらけにした腕をセーターとダウンジャケットで覆って雪の中を探し回り、といっても気まぐれな情熱だからすぐ尽きてしまう。目当ての角は見つからず、鼻を赤くしてとぼとぼ帰る。そうしてまたへろへろに酔っ払いながら草入りのクッキーを食う。
 ムースというのはアメリカ人の呼び方で、ヘラジカのことだ。巨大な体の、森の王と呼ばれる鹿だ。歩く姿はピックアップトラックのフルサイズのやつよりも大きいというのだからとんでもない。ほかの鹿たちと同様、角は年に一度生え変わる。冬。だいたいクリスマスを過ぎたころ自然にぼろっと抜け落ち、森の中に打ち捨てられたさまはきっと雪の重みで折れた枝みたいに見える。
 左右に大きく広がった掌上の枝角だ。大きいものでは二メートル近くになり、そんなにでっかいものが一年の間に生えて育って捨てられていく。不思議だ。硬く立派にそそりたち、ところどころ黄ばんだり黒い斑点があったり、いかにも年季が入っていそうに見えてもみな一年草だ。
 新しい角が生え始めるのは春だ。生え始めは皮をかぶっている。産毛に覆われ、柔らかく、形も丸く、一日に五センチ近く伸びるという。やがて皮が剥け硬い角があらわれる。
 皮が剥けるときムースは痒みを感じるようだ。剥け始めたところを木の幹にこすりつけ、まるでかさぶたを掻き毟る子どものようだ。でもそうやってごしごしやったところで一度に剥けるわけではない。残った皮を角のあちこちからリボンみたいにぶら下げ、ひらひら靡かせながら夏の森を駆ける。皮はいつか千切れ、ばらまかれ、下草にからまりなんだかわからなくなるだろう。土に馴染んでいくだろう。皮の内側は真っ赤で、ちょっと痛々しいようにも見えるが、血液を勢いよく巡らせ角を成長させたしるしだろう。

 これは基地に出入りする友だちから聞いた話だ。米軍基地のプールで監視員のバイトをやっていた女の子で、きっと、ろくでもない若い兵隊たちから仕入れた話だ。
 彼女とわたしは同じ団地に住んでいた。ママ氏も覚えていると思う。なめらかに日焼けした腕と真っ黒で長い髪が素敵で、わたしはひそかに恋をしていた。

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しっとりと肌に触れ、去って行く風

想像上の森と現実の倉庫、記憶のなかのいろいろな年齢と現在の"わたし"など、さまざまな場面を行き来して語られる物語。
「赤んぼ」とか「なんやかや」という、オカワダさんの言葉のチョイスが好きです。映像が浮かぶような文章で、古着の匂いやドローンの飛び上がる空、ムースの居る森のしっとりした空気まで感じられました。
読み終えたあと、長い長い心地のよい夢から覚めたときのような心持ちになりました。主人公が50歳ぐらいなのですが、自分がこれから歳をとって40や50になることを、なんだか、それも良いなと思えました。
夏の話というわけではないのですが、しっとりと暑いこの季節にそっと肌に触れ、そして去って行く、ゆるやかだけれど従順ではない、熱を孕んだ風のような一冊だと思います。

伴美砂都

長いため息のように

 これはすごいな。強い。
 本作を読んでまず出た言葉がそれだった。ふうのひとならそれでよかったのかもしれない。ただ運の悪いことにぼくはひざのうらはやおという名前でいろいろな書評を書いてしまっている。つぶやいた瞬間に「えっそれだけ?」って思わず言ってしまいドトールは騒然となった。
 閑話休題。
 オカワダアキナ氏の作品をいくつか読んだことがあるが、いずれもどこか一貫した、どこか荒涼とした風景を描いているようにぼくは思う。そして本作はその中でもとりわけ「荒涼とした風景」がひときわ似合う小説であった。殺風景でもなければ雑多でもない、高温でも低温でもない、けれどニュートラルではぜったいにあり得ないまちのありようを舞台としてしっかりと描きながら、主人公が独白を積み重ねていく。
 純文学では「語り」が重要である、と太宰治賞の選者である方がおっしゃっていたのを思い出した。主人公は「口が達者ではない」のにもかかわらずずっと「語り」続けている。それらは「息」となって拡散し「余田」およびその娘「ゆめあ」に伝わっていく。主人公の感情はけっしてポジティブではないものの、言葉はどちらかというとポジティブに表出し、そのポジティブな言葉とともに物語は進行していく。後半にさしかかると彼女の長いながいため息が聞こえてきてしまった。表題はthe brilleant greenのシングル曲からとったが、その間延びした印象からは考えられないくらい緊密に精巧に作られている部分がなんとなく似ていて、本作の内容にもかかっているのでなんとなくタイトルにしてみた。深く物事を考えるのに向いていない。
 高い完成度を誇る氏のラインナップの中でもいっとうすぐれている小説であると感じた。個人的にはパラフィン紙でくるまれた装丁が小説と大きくリンクしていてとても好きである。こんな装丁をしてみたい。
 オカワダアキナの「ごうがふかいな」を端的に知ることが出来る一冊。

ひざのうらはやお

あなたの物語を生きるつもりはない

郊外の団地に母と二人で暮らす50代のレズビアンの私のもとにずいぶん昔に疎遠になった高校時代の友人とその娘が現れ、古着屋を始めるので手伝ってほしいと言われ……
物語のアウトラインは確かにその通りなのですが、過去と現在を自在に行き来する『私』の語り口は悠々と軽やかに、のびやかで豊かな語りを繰り広げ、読み手の私たちはよい意味で惑わされながらも物語の中に自在に吹く風へと誘われていく。

家族と仲が良いわけでもないが、決別したいわけでもない。仕事に愛着はあるが、強い愛着はない。レズビアンであることを自覚しているがうまく女性を愛せたとは思えず、それでも自身の傷にとらわれすぎているわけでもない。
誰かのパートナーでも誰かの親でもない、社会と接続してはいるが、『連帯』を求めてはいない。
自身や社会を取り巻くあらゆる事象への違和感や戸惑いをおぼえながら、『それはそれ』と、なにかを振り分けもせずに、『私』はただ、あるがままでいる。オカワダさん曰く「機嫌の悪い」主人公の語りに沿って随筆のように進む物語はブコウフスキーの「死をポケットに入れて」をどことなく彷彿とさせるよう。

終盤に差し掛かる頃、ゆめあに放った言葉は「私をおまえたちの都合の良い物語に巻き込むな」という拒絶のように個人的には思えました。
正しくなくともゆるせなくとも、何も切り捨てずにただそのまま飲み込み、自ら巻き起こした風とともに軽やかに駆け抜けていく。不思議な心地よさにゆらりと身を委ねる喜びを感じられる作品です。

高梨來

五感を味わう小説です

オカワダアキナさんの新刊で、楽しみにしていました。
タイトルは古着のランク付けからきていて、実際に古着屋をやるエピソードが中心ですが、ヒロインの過去と現在をいったりきたりします。
いつものように五感をかきたてられるモノローグで、作品世界にすーっと入っていけます。というか、今回、ヒロインのお母さんが家では変身しちゃう場面をのぞいては、ファンタジックな要素はそう強くありません。風にのせて会話するのは皮膚感覚としてなんとなくわかりやすいですし……。
自分はいいトシなのに何をやってんだろう、でもまあ、めんどくさいからどうでもいいや、という倦怠感が何度も描かれていますが、それは《別に正しくなくても良くないか?》という正常な感覚に裏打ちされたものなので、共感して読めます。学生の頃、先輩が「人を裁く正義は本当の正義じゃないよ」と言っていたのを折に触れて思い出しますが、オカワダさんの小説は、読む人のいいところもダメなところも様々な過去も受け入れて肯定してくれる小説で、人を裁きがちな人間にとっては、むしろこういうのが正義なんじゃないかなと思っていたりします。

鳴原あきら