キャンバスいっぱいに広がる青い色が、濃淡をつけて重ねられていく。絵筆が伸びやかに、そして時には繊細に動く様子を、弦月小夜子(つるつきさよこ)は傍らで見つめていた。
キャンバスの前に座る青年は、左手にパレットを持ち、右手でひたすら絵筆を動かしている。
青年――槻崎一伽(きさきいちか)は、少年のような顔立ちを真っ直ぐキャンバスに向けている。顎や鼻筋がほっそりしていて体格も小柄だから、一伽は二十歳になっても幼く見える。
キャラメル色の巻毛と、淡い色の瞳。肌も色白だから、全体的に色素が薄い。儚さとも取れる彼の雰囲気は、小夜子の目には弱々しい印象として映る。
「人魚たちは、陸には上がれない。海の中だけで暮らすって、やっぱり狭く感じるのかな」
キャンバスと向き合ったまま一伽は呟いた。その言葉は独り言のようにも、小夜子に語りかけているようでもあった。一伽が向き合うキャンバスには深い青が広がっている。オレンジや黄色の魚が泳ぎ、ピンク色の珊瑚や白い貝に彩られている。
やっぱり海の絵だ。
一伽は昔から海の絵が好きだった。
海に行ったことも潜ったこともないだろうけれど、彼はいつも海の絵を描いていた。描いているモチーフは子供の頃から同じなのに、まったく同じ絵は一枚もない。
小夜子と一伽は幼馴染だ。
家が隣で、小学校に入る前からいつも一緒に遊んでいた。
「いつも似たような海の絵ばっかり描いて、飽きないの?」
多分、以前にも何度かしているだろう質問を、小夜子は一伽に投げかけた。一伽は筆を動かしながら即答する。
「飽きないよ。海の絵を描いていると落ち着くから」
この答えだって、何度聞いただろう。
一伽は昔から変わらない。
日々人生を楽しんでいるように見える。彼がつまらないと思うことは、きっと退屈だけだろう。
絵を描いたり楽器を弾いたり、歌ったり、詩を書いたり、本を読んだり、彼は好きなことをいくつも持っている。
多趣味とは違う。一伽には、今を楽しく生きようとしている節がある。享楽主義的なのかもしれない。それは彼の持つ性質の大部分のような気がする。
その性質には、おおよそ切羽詰まった理由がある。
小夜子は一伽の痩せた背から目を逸らした。