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あまぶんウェブショップ

販売は2021年7月31日をもって終了しました。
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  • 平成バッドエンド

    ひざのうらはやお
    1000円
    純文学
    ★推薦文を読む

  • ひざのうらはやおが平成の終わりに放った純文学小説集。活動休止前最後の作品。連作小説「平成デッドエンド」「平成アポカリプス」および代表作「猫にコンドーム」を収録。

試し読み

「猫にコンドーム」冒頭

 何もかもにアイスピックをぶっ刺して殺してやりたかった。緑色にゆがんだ川面をにらみ、堤防の脇の道を下る。ヘドロを流すような工場もないのに、そんな感じの臭いがするのはなぜだろう。つんとした、アンモニアっぽいあの感じ。まあでも、アンモニアって中学の化学の授業でしか知らない。刺激臭だって。こんなんじゃ、叫びがいがない。
 市役所なんてさ、退屈だよね。
 とか言いやがった警察官をあたしは死ぬまで許さないだろう。501で喉元を撃ち抜かれてしまえばいい。同じ公務員のくせに、税金泥棒とか罵られながらどれだけしんどい思いをして生きているか気づけないなんて、こんな男をちょっといいかもなあ、とか思ってたことすら嫌悪するくらい、本当にいい加減にしろと思った。自分は違うとでも思っているのか。前線兵士ごときで傲慢も甚だしい。たしかハイヒールでぶん殴って帰ってきたような。よく覚えていない。覚えている義理もない。
 干上がりかけの何かがごっぷり溜まった護岸を、ぺたぺたとスニーカーで歩いていく。市長はどのつくスケベセクハラオヤジで、今朝の挨拶でも「職員の服装が」しか言ってなかった。服の中身までなめ回すように見てるの、みんな知ってるぞ。とっととスキャンダルで捕まればいい。どうせあるだろ、そういうの。
 それほどまでに悪態をつきたくてあたしはぶっとんでいた。はさみを振り回すザリガニの気持ちもわかるような気がした。いらいらする自分に酔っぱらっているみたいな。ストロングゼロと同じくらい、怒りはひとをだめにする。
 視線をおろすと、ひなたぼっこしている猫を見つけた。畜生、昼寝してやがる。
 税金泥棒も本職を究めると、ろくに文書も書けず、頭も悪くて価値観も古い脳に支配され、もはや生きているのが奇跡みたいな人間になる。一時間ほど前、真性税金泥棒、もとい自称三十三歳オトナ女子は、明らかにあたしをいびる目的でヒスり始めた。間に入った課長は喧嘩両成敗だとか言って、あたしだけ早退させた。じゃあ両方ぶっ殺せばいいじゃん。児童相談所じゃねえんだぞこっちは。なあ、お前もそう思うだろ。
 語りかけるが猫はぐっすりと寝ていて起きない。堤防のコンクリートを触ったらめちゃくちゃ熱くて手が焼けるかと思った。よく寝られるな。もしかして死んでたりして。知らんけど。あたしは心配になっておなかを触ってみた。ほどよくぬくぬくしてあったかい。

「聞いて、おれの答え」

「平成バッドエンド」というタイトルをぱっと見て、みなさんはどんな物語を想像するだろうか。おそらくであるが、本作の前2編、すなわち「平成デッドエンド」「平成アポカリプス」については、タイトルから想像した物語がおおよそ予想通りの結末となって描かれているように思う。ただし、これは人生の大半が平成であった、昭和末期から平成初期(初期という言葉は難しいが、ここではおおむね1桁生まれとして使っている)に生まれた人間のみの感傷だと言われてしまえば、それにしっかりあてはまってしまう私には返す言葉がない。
氏は、刊行当時、本作をもって同人創作を休止すると発表している。その後も結果的に創作についてのあり方を模索しながら復帰への道をたどっていったことは他の作品群を見ても明らかであるが、少なくとも、本作を読んだ上では氏は本気で筆を折る気だったのだろうと思うし、それほどのアクシデントが氏を襲ったのであろう。それほどの気迫がこれらの小説群からは感じられるのだ。
私が思う、ひざのうらはやおという作家の最も特徴的な持ち味は「主観を極める」というところにある。本作収録の、本人が代表作と標榜している「猫にコンドーム」も前2作とその点において強く結びついている。すべて、ひざのうらはやおの完全なる主観に基づいて言語化されているのだ。それでいて、特に前2作においては極めて浅い部分での共感と、その先にある同調を求めている。この矛盾しているともいえる相反する概念が組み合っているのが、「平成バッドエンド」なのである。主観的であるからこそ、感情の起伏を極めてストレートに、リアルに描出でき、それが「凡庸」であるからこそ「共感」があったり引き込まれるような感覚を覚えるのだろうと私は思う。
氏が本作に打ち出したコピーは「令和よ、これがひざのうらはやおだ」とのことであるが、まさにその通りの小説集である。本作はひざのうらはやおの主観と感情のほぼすべてが「読みやすく調理されている」いわば「幕の内弁当」のような趣がある。
さしずめ氏による、氏自身のポートレイトが本作といえるだろう。純文学とは何かを考え、つきつめた先に見つけた、氏の答えがそこにある。
終わりではなく、きっと先にある始まりを見据えた作品集だ。

新津意次