「『──花の咲かない頃はよろしいのですが、花の季節になると、旅人はみんな森の花の下で気が変になりました』」
小さな声を出して読んでみる。もう一度、繰り返してみる。
「気が、変に、なりました」
私はいつからか気が変なのかも知れない。
外は春特有の白っぽい夕暮れだった。私は飾り窓の傍の椅子で坂口安吾を暗くなるまで読んだ。
「気が、変に、なりました」
夜だからワインでも飲むといいかも知れない。ロゼのスパークリングワインがいい。
冷蔵庫からそれを出してきてグラスに注ぎ、長いストロォで飲んだ。随分旧いストロォで、ぴんく色をしていて、途中でト音記号の形に曲がっているのだった。ワインはあかく、ぴんく色のストロォのなかを回転しながら私の口許まで昇ってくる。ト音記号に回転しながら昇ってくるワインなんて、気が変だ。
「気が、変に、なりました」
私はもう一回くちに出して、そう云った。
気が変になったら死なせるかころされるしかないのではないだろうか、と本を読みながら考えた。小説のなかの女は首を落とされる。男は泣く。桜の森の満開の下で。首を落とす男は、ころされた女よりもずっと悲しかっただろう。
どうしてこんなに悲しいことがあるのだろう。それは悲しみというより暗澹とした黒い水を湛えた大地のようで、私はいつしか膝のあたりまでその水に浸ったまま立ち歩いて生活をしているのだった。ときどき足を滑らせて斃れそうになったりよろめいてくずおれそうになるが、暗澹の水は只の水で、それ以上に捕らえてくれたりましてや死なせてくれたりしないので、尚更に苦しかった。
(「春眠」)
姉とわたしは、アリスブルーから濃紺になってゆく空を黙って眺めていた。
「どうして夏は秘密なんだろう」
わたしは呟いた。
「ひみつ?」
姉が問う。
「どうして夏はこんなにきめ細やかに、秘密を内包するんだろう」
「あのね、教えてあげるね」
暫くして姉が云った。
(「翳り」)