すっかり見慣れてしまった灰色の光景の中にぽつんと一滴、インクを垂らしたかのような一際鮮やかな色彩が灯る。
アパートのすぐ前、殺風景なコンクリートの歩道と駐車場の前で、赤い影がかすかに揺れていた。南天の実みたいな、こっくりと深い朱色のマフラーだ。ゆるやかに束ねられた艶めいた焦茶の髪、フェイクファーの耳当てに、いかにも仕立ての良さそうなチャコールグレーのコート、ブラックウォッチの細身のパンツ、肩からはシンプルな黒いキャンバス地のトートバッグ。
顔を見なくたってわかる。あの人だ。それなら――すこしだけぬるまったコーヒカップを手に大人しく部屋の中へと退散しようとそう思うのに、なぜだか足が動いてくれない。
寒さのせい――ばかりではないのは、なによりも自分自身が知っている。
たっぷりとゆるやかに巻きつけたマフラーの裾を揺らしながら、その人がこちらへと振り向く。マスク越しの、こんなにも遠目からでもはっきりとわかるような花が咲いたようにやわらかく綻んだ笑顔で。おおきく手を振って、何かを伝えようとしている。
まるで映画やドラマの中から抜け出てきたかのような鮮やかな場面だ―登場人物なんかじゃないはずの自分が紛れ込んでいることが、おかしくてたまらないほどの。
手袋をはめた指先が、耳にかけたマスクの紐をそっと外す―そうだよな、これだけ離れてるんだから。
気まずい心地に駆られるままにそっと視線を逸らし、すこしだけ身を乗り出すようにして薄べったい仕切りで遮られた隣のベランダのようすを盗み見れば、思ったとおりに、厚手のニットガウン姿のその人が大きく手を振りながら微笑みかけている。
初めて目にした時とおなじ、きっと幾度も繰り返されてきたはずの、ふたりにとっては『あたりまえ』の光景。この一年とすこしの時間がこんなにもその意味を変えてしまうだなんて、思いもしなかったけれど。
気づかれないようにぎこちなく目を逸らし、そっと身を屈ませて、赤いマフラーの主の姿を盗み見る。
何やってるんだろうな、ほんとうに。罪悪感ならそりゃあ余りあるほどなのに、なぜだかすこしも動けない。ちいさな影がゆっくりと遠ざかって消えていくのを確認してから、わずかに身を乗り出すようにして隣のベランダの主人へと声をかける。