あとがき
詩はコミュニケーションのツールである、というような言葉を、ちらりとツイッターで見かけた。なんのことはない、どこかの詩人が気まぐれにつぶやいたのだろう。だがその時、私は息苦しさを感じてしまった。
とはいえ、ふだん詩を書くとき、私は他人から読まれることを強く意識している。詩集に値段をつけて売っている時点でそれはひとつのコミュニケーションをしているし、他者に読まれることへの意識がない作品は読みたくない、とさえおもっている。
それなのになぜ今更、息苦しいと感じるのか。
おもうに、自分にとって詩を書くという行為は、私の言語体系、私のためだけの言葉の回路を作る作業だったのではないか。
詩を本格的に書き始めた十五才の頃の私は、尋常でないくらい詩を書き綴っていた。溢れ、こぼれだすようだった。その当時、誰からも愛されていないとおもい込み、誰とも繋がれなかった。世界から剥がれていく、と生身に感じていた。ペンを握りしめてノートに書きなぐって、死んでしまいたい夜を毎日やり過ごしていた。
詩は共に思考し、私に息を吸える場所を与えてくれた。暗闇でしかない世界を灯す明かりであって、それは本当にささやかなものだったのだけれど、その光が届く範囲は安心し、自由でいられた。
人から読まれるのがひどく嫌だったが、信頼する友人が良いと褒めてくれ、これからも書き発表すべきだと言ってくれた。
私が灯した光に惹かれて人がやって来てくれたことは嬉しかった。同じ空気を吸える喜びがあった。
だから、書いたものを読んでもらいたいとおもうようになった。そのために、自分のために得た回路をチューニングし直している。誰かに読まれるからには、より伝わりやすく、より豊かなものを書きたいから。
けれどけして詩はコミュニケーションのツールなどではない。自身の思考の回路が開けた先に、たまたま誰かに伝えるという選択肢があったまでだ。
光を灯すのは、自分のためだけでもいい。むしろそちらを大切にできたほうがいいようにもおもう。……