出店者名 ヨモツヘグイニナ
タイトル 幼神
著者 孤伏澤つたゐ
価格 1000円
ジャンル ファンタジー
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紹介文
人間はおれが視覚と聴覚と、おまけみたいにそなわっている触覚で行動していることがわかると、すぐに自分の信仰をためす。
神は人間などに傷つけられたりしないはずだという盲信から、平気で害意を向ける。


白い世界からきた神とその片割れと、少しの時間を過ごす人間のこと。

2015年9月に刊行しました本編に、番外編3篇を収録して新装版としました。

 その細長い空間で、人間がつくった文字で人間がしるした本を読み、人間が時間を切りとるために絵や文字をかくと知ればまっさらな紙に筆を走らせる。
 あのひとは片割れに似せて人間をつくったらしいが、おれたちは人間の真似ごとをしながらすごしている。人間の真似でできないことなんて交接と排泄くらいで、そうだ、おれは、眠ることもできないんだった。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、やけに片割れがおとなしい。見ると、ペンを握ったままうつらうつらしている。回路はまだつながっていたが、じきに切断されて動かなくなるだろう。
「おい、ここで寝るのか」
「うん」
 とろんとした声でうなずく。
 鉛筆と画帳を取りあげて、読みかけの頁にはさむ。こうしておけば目ざめたときにそれまでしていたことを教えてやれるし、自分もすぐにつづきをはじめられる。
「なあ」
 やわらかな声で呼びかけられて、左手がのびてくる。うん、と返事をしてこっちも右手を伸ばす。指を絡めて、右隣に横になる。片割れはひとりでは眠れない。
 うつくしい横顔を見る。細部まで徹底的につくりこまれていて――なんて完璧なんだろうと感嘆するほどに。 
 同じかたちの手を持って、ほとんどおんなじからだを持って、声も、一緒なのに、片割れが安らかな眠りをねむっても、かれは眠れない。材料が足りなかったから、睡眠の機能がそなわっていないのだった。
 長い長い時間を眠ることで少しだけ飛び越えることは、できない。
 きゅっと握ってくる指の力がだんだんと抜けてゆく。
 同じように目を閉じても、片割れが目ざめるまで、覚醒している自我がいろいろなことを考える。
 その時間が長いのかみじかいのかそのときにはわからない。――ただいつ終わるのかと、永遠に終わらないんじゃないかとこわくなるだけで。
 眠っているあいだに、片割れは夢を見るという。起きると必ず、見た夢を話してくれるけど、もしおれが眠ることができたのなら、身を寄せあった眠りの中で、おれはこいつと同じ夢を見られるのだろうかと、いつも不安になる。片割れの腕のない肩にひたいを押しつける。
 ふたりでいるのに、いつもさみしい。


これは作者の魂の破片
この形になるまでに十五年かかった、と後書きにある。
しかも、これは、外伝なのだと。

その言葉どおりの、ずっしりした重みが、この『幼神』にある。

何が起こっているかわからない場面でも、登場人物に迷わずついていける。
突然出てきた単語にも、まったく違和感を感じない。
巧さをこえて、文章そのものにつたゐさんの息づかいがあり、そこに描かれているのが、つたゐさんの魂そのものだからだろう。
こういう書き方ができる人は少ないし、力のある作家でも、すべての作品でこう書けるわけではない。
面白い。

ただ、今まで推薦文がなかったのは、仕方がないような気がする。
あらすじや世界観を説明したところで、この作品を語ったことにならない。ここに描かれている神は、人が神と呼んできたものそのものだ、などという陳腐な形容も似合わない。読みやすいし、面白いし、泣けるのだけれど、そんな言葉で簡単にくくってしまっていいものではない、と思ってしまうのだろう。

私は自分の中に、調伏しがたい人間を複数飼っていて、もう一人の私が、続き物の夢に出てきたりする。二十代の頃に「僕を書け」と命令してきた某キャラクターは、疑似家族を与えて放り出すのに何年もかかった。それですっかり退治できたかというと、別の形で再登場してきたので、今も仕方なくつきあっている。創作活動は、つまり業みたいなものなのだと思う。『幼神』を読みながら、それを思い出した。作品の底を流れている、一種の「諦念」が心地よかった。どうにかできるものと、どうしようもないもの――ほとんどは、どうしようもないのだということが――。
推薦者鳴原あきら