「兄が失礼をしたね」 部屋に戻った途端、深く沈む椅子に縫い止められて、私は息を呑んだ。何が起こったのか一瞬わからなかった。せっかくのドレスに皺が寄るとか、髪を結わないとこういう時に邪魔だとか、どうでもいいことが頭をよぎる。意味のある問いかけは全て吐息となってこぼれていくばかりだ。 「嫌な思いをさせてしまった」 「あの、ディアーイン様?」 私をのぞき込む琥珀色の瞳はいつになく剣呑と輝いている。普段の優雅な物腰とも、時に私の胸を抉る皮肉な言動とも、無感動に愛を囁く様子とも違う。偽りの笑顔の奥にあるものが読めず、私は戸惑った。第三王子ディアーインとしての顔ではないし、哀れな娘を娶ろうとする異国の青年の顔でもない。 「すまない」 優しい言葉とは裏腹に、ドレスごと私を椅子に沈める力は強い。幾重にも重ねられた薄い布は、そうでなくとも自由が利かない。椅子に埋もれているのか布に埋もれているのかわからなくなる。ますます窮屈だった。 「あの兄――トァーランは困った人でね」 ディアーインはそう告げる。婚礼前の花嫁に手を出されそうになって憤っている、という振りならば、この部屋でも続ける必要はない。噂好きな付き人や仕立屋の前でそう見せかけていればいいだけの話だ。ここには私たち二人しかいないのに、どうして彼は機嫌が悪いのか。 ……そうだ、今わかった。彼は機嫌を損ねている。こういった様相は、見慣れた父の横顔を彷彿とさせた。 「彼は僕のものを横取りするのが趣味なんだ。君が美しいから、つい欲しくなったんだろうね」 薄く笑む彼が実際には微笑んでいないことくらい、出会って日が浅い私でもわかる。彼は兄に対して怒っているのか? それならどうして私に迫るのか? 今にも触れそうな距離で見下ろされると、身じろぎ一つできない。 「本当に申し訳ない」 そうは思っていない声が耳朶をくすぐる。こういう時にどう振る舞うのが「かわいそうな幸福の娘」に相応しいのか。私はすぐさま答えが出せなかった。 祖国が滅び、無理やり嫁がされ、それでも恩人に愛されようと必死になる、不幸なエアンダルの娘。私が演じなければならないか弱い少女。毅然と悠然と物を言い、凛とたたずむことを長年心がけてきたので、それが染みついてしまっている。だから心構えがないと咄嗟に繕えない。 「すみません。私が至らないばかりにディアーイン様にご心配をかけて」 絞り出した声はかすれた。
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