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なにか、……そう形容するほかないそれは、物体とか物質とかいうものではない気がする。わたしは、持ちうるすべての感覚を総動員し―おもにしごとをしていたのは視覚だったが―知りうるわずかな言葉の枠にその奇妙なものをさっさとおさめてしまいたかった。名状しがたいものを、定義づけして安心したくて必死で、養父が、ドアを閉めたのちに発した声については聞き逃してしまった。 |
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「眠る」ということは、時間の流れに句読点のような区切りを打って自分を確かめることなのかもしれない。 この本を読んで、ふとそんなことを考えました。 自分が存在すること存在しないことの途方のなさが、頭で理解するのではなく肌に染み渡っていくような、不思議な美しい物語です。 | ||
推薦者 | 三谷銀屋 |
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「ここは、獏の飼育部屋です」 うつくしい養父に連れられ、娘は小さな灰色の部屋を訪れる。部屋の中にあるのはスチル製の椅子と机、そして立方体の青いガラスケース。 「獏はどんなかたちをしていますか」 娘は養父に乞われるままガラスケースに収められた獏の観察日記をつけ始める。 「実を言うと、わたしには、獏は見えないんです」 小さな部屋の中でひとりノートに獏の生態を綴り始めた娘は、次第に自己の存在に疑問を持っていく。 読み始めて早数ページで、これはわたしの手に負える作品ではない、と直感し、それでもまるで引力に導かれるようにして読み進める手を止めることが出来ませんでした。 夜と夢、獏の三者が織りなす物語は、「鶏と卵、どっちが先か」という、答えを永遠に持たないであろう議論と同じように果てがなく、それぞれが「存在」を語り、主張する様は、切なくもとても美しいものであると感じました。唯一異なっているのは、夢には終わりがあり、夜は明けるという点であるのかもしれません。 己の非存在を恐れた娘が、ある時はノートに嘘の観察日記を書き綴り、ある時は嘘も本当も書けなくなる、というシーンがとても好きです。 見えないものは存在しない、目に見えるものは存在しない、と、作中では繰り返し「存在」について議論がなされます。この「ゆめのむすめ」という作品は、空っぽの水槽で表されている「自己と他の間に横たわる空白」に名前を付けて、その中に自分の存在を探すための物語なのだとわたしは受け取りました。そしてそれはこの物語の中だけの出来事ではなく、多かれ少なかれわたしたち誰もが行っている行為なのだと。 遠い世界ではありながら、それでていて現実的な近さにあっても決しておかしくはないような、そんな夢現が入り混じる酔いにも似た感覚を、読んでいる間中ずっと感じていました。これは、と思った部分にメモ代わりとして付箋を貼っていったのですが、付箋を貼りながら小説を読んだのはこれが初めてのことでした。 夢には終わりがあり、夜は必ず明けていく。けれどもまたいつか夜の帳は落ち、再び夢の世界が訪れる。それはひとつの絶望であり、同時にひとつの希望でもあるのだと思います。出会えてよかったと、そう心から思える作品でした。シュルレアリスムの絵の中に取り込まれるような感覚を、ぜひ、味わってみてください。 | ||
推薦者 | 森瀬ユウ |