第一話 忘れてしまった夜の底
黒のお姫様が夜の絵の具で空を塗りつぶしたら、ランプに炎が灯る時間。森はすっぽりと夜に覆われて、穏やかな月光が注がれる。それは眠りのとき。夜を司る黒のお姫様が生きとし生けるものに与えた生き物への休息。
「カナ、魔除け」
「カナじゃなくて、カナラ」
「はいはい」
けれど、ご用心。森は眠っても、森に住む存在も眠るとは限らない。黒のお姫様は等しく眠りを与えたけれど、魔に属する自分の子どもたちに夜に眠れとはいわなかった。
白の旅人が夜を溶かす太陽を運んでくるまで、夜に活動しない生物は気をつけなければならない。恐ろしい存在が扉を開けてしまわないように、魔除けを扉の外に吊すのだ。
「あれ、新調したの?」
「そろそろ、替えどきだった」
深い森と似た色を持つしー兄(にぃ)のつり目が笑う。ちりんと涼やかな音を鳴らして、魔除けの精霊の家を差し出された。銀細工で作られた小さな家には精霊が宿った水晶、精霊石が入っている。精霊がいる証拠として、麻縄で吊るされた家を揺らせばちりんと返事をした。あまり揺らしすぎると精霊が怒って家を出て行ってしまうらしい。子どもの頃に一度やってしまったと先生が照れ臭そうに話していた。
その精霊の家を扉の外か軒下に吊るすのが魔除けの習わし。今夜もその習わしに従って、私は扉を開けた。濃厚な森の匂いが家に入り込んでくる。春先の夜風は冷たく、炎の精霊が今夜も暖炉で薪を燃やしている。
「鉱物に精霊がずっと居着いてくれるわけじゃないからな。家に飽きていなくなる前に、鉱物を取り替えて新しい精霊石を作らないと」
「都では、こういうことはしていないんだっけ」
この国には風の神様がいるとされている。国の中心となる都に私は行ったことがない。定期的に訪ねてくる行商人のヤシロ曰く、都はとても広いらしい。「森暮らしのお前なんて迷子になるぞ」とからかわれた。あの茶色の商人は失礼なんだから。
扉の上部にある鉤に精霊の家を吊るす。仕事の時間だとわかったのか、ちりんと精霊が鳴いたと思えば、精霊の家が青白い光に包まれた。今晩、この明かりが私たちを守ってくれる。
「都は精霊樹で守られているからな。ここより安全なのは確かだ」
「別に、魔物が怖いわけじゃないもの」
「魔物は怖いぞー? 可愛いカナが一口で食べられないか、お兄ちゃんはとっても心配だなぁ」