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あまぶんウェブショップ

販売は2021年7月31日をもって終了しました。
たくさんのご注文をありがとうございました。

試し読み

 その建物のことを、私に教えてくれたのはイノリだった。
 目のあまり良くない私はそれを、ちいさな山かなにかだとずっと思っていた。それほど、建物は壊れ、表面をいろいろな植物に覆われてしまっていたからだ。
 そういう、私がずっと小さな山だと思っているものが、この町にはたくさんある。だからイノリが、あそこへ入れるんだよと言ったとき、同じように自分がまだ知らない建物がほかにももっとあるのかもしれないと思って、よけいわくわくした。

 建物のドアは、道から見ると裏側の、ひときわ大きな葉と葉が茂るあいだにあった。灰色で、少し割れているが、ぐっと押すとすぐに開いた。
 そっと中に入る。通路は暗い。イノリは一歩入ったところで立ち止まって、私の目が薄暗闇に慣れるまで待ってくれた。向こうのほうは、すこし明るいようにも見える。

「下、割れてるから、気を付けて」
「うん、イノリ、手を持ってもらってもいい?」

 もう差し出してくれていた手のひらでイノリは私の手をぎゅっと握って、少し広い空間へ出るまで導いてくれた。足もとは灰色の廊下が割れて、石や砂のようなものがたくさん落ちているようだった。動くものはないように見えたけど、できるかぎり慎重に歩いた。
 今日は、外はまだあたたかな陽がさしていた。でも、日の当たらないここは寒い。壁もどこか割れているのか、ひゅうっと隙間風が通った。


 突き当たりは想像していたより広い部屋だった。窓がいくつもあることに気付かなかったのは外に垂れ下がった蔦のためで、でも内側から見るとその緑色を透かして、ずっとたくさんの光が入ってきているように感じられた。私の目にも、脚の折れた机や壊れた椅子、立ち並んだり倒れていたりする棚のようなものが、しっかりと見えたからだ。
 床にはあちこちに、なにかそれぞれ似たかたちのものが、たくさん落ちている。これは、とイノリが言った。

「本、かもしれない」

(収録作品より、伴美砂都「未来」)

この夏オススメの一冊! 隣に寄り添ってくれる本

すごい本だ、という感想につきます。
8人の書き手と1人の撮影家による作品が集う「ロゼット」。伴美砂都様が主催されていて、だからこそ集まった珠玉の作品たちは、どれも隣に寄り添ってくれるお話でした。
例えば、社会にくたびれたとき、座って休みたいときに、最適な本です。座っていると、平気な顔をして前を過ぎていく人々がよく見えると思います。普通をつくろう人々も、実は裏でいろんな事情を抱えている――そういったことに気がつかせてくれる本でした。大人って長生きしている分、複雑で、そんな世界をみせてくれる本でした。
創刊号は、「特集 春を待つ」という副題ですが、春という季節にとらわれず書かれている作品も多いです。夏のお盆のお話もあります。だから夏の今でもお勧めできます。いろんな人に読んでもらいたいです。
春と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。恋の季節、芽生え、新しい時代の始まり。そういった春がテーマではないのです。この本はあくまで「春を待つ」がテーマなのです。ここが非常に心に響くポイントです。明るい予感を持ちつつも、または予感を持つことさえ辛い環境にあっても、じっと耐えて生きるしかない人々がいるのです。目まぐるしい社会のなかでは、なかったことにされそうな感情にも、寄り添ってくれる、確かな温かさがある物語でした。この本を読むことで、ぬくもりが呼び起こされたようです。
最後、主催が書かれた「未来」を紹介します。滅びていく世界で、若者たちが環境に耐えつつ、生き抜くお話でした。厚みのある本が、この世にある理由をまっすぐ見つめることができる作品でした。あまぶんの試し読みから気になっていて、買うきっかけになりました。「ロゼット」という言葉にこめられた意味をじんわり受けとめられて、ラストにふさわしい作品でした!

新島みのる

氷がこおりでなくなる瞬間に。

「ロゼット」というのは、春をまつ植物のかたちらしい。ちょうどあの、タンポポが地表に葉をめぐらせてるのが「ロゼット」だと聴いたような記憶がある(おぼろげ)。そういえば「ロゼット」には「勲章」みたいな意味もあった気がするけれど、胸元につける勲章と春を待つタンポポは同じところから来てるのだろうか。

とにかく。

「ロゼット」は季刊らしく、「春にふさわしい作家を集めました」と主宰の伴さんがツイートしてた気がする。たしかにそうかな!と思う。原稿をよせている方々の名前をみても、春めいた、というか、どこかつめたくて、芯があって、気持ちのいい文章を書く方が多いと思う。
伴さんの文章は好きだし、みなもとさんの文章について言葉を費やせば足りないし、ほかにも知っている・好きな作家さんがいらっしゃるこのアンソロジーだが、あえてこれまで知らなかった方の文章にふれてみたい。

栗原夢子さん、という。推薦文をかくにあたり、「ロゼット」を開き直し、文章を読み直すと、栗原さんの文章にふしぎなデジャヴがあった。どこかで読んだような…。なんのことはない。この本を読むのが2回目だったからである。けれど、ずいぶん前に読んだはずの文章がまだ心のなかに刺さっているぐらい、鮮烈な文章だった。
「氷解」というタイトルのそれは、めぐりめぐる季節の、冬が春にかわるほんの一瞬にだけ、おとずれたそれを切り取った作品であるかのように見えた。この、瞬間、というのが私はいっとうに好きだ。季節がかわる、気持ちがかわる、心がかわる、人がかわる、別離と出会いのはざまにある、その瞬間をすかさず切り取ったその文章、作品のおわりに現われるシーンが、好きだ、という陳腐な言葉でしかいいようがない。けれど、ひとの死をみとり、生とであい、季節のようにくりかえす日々のなかで、きっと誰にでもおとずれる奇跡的な瞬間なのだと思う。読んでよ。きっとその瞬間がきたときに、わかるから。

アンソロジーは、あたらしい作家とか、言葉や気持ちと出会えるチャンスだと思う。春(もちろん、季節としての、ではなく)を待ちながら、この本を大事に抱えて、やってくる出会いを両手でむかえたい。

にゃんしー

だれもが春を待つ「いま」の文学のかたち

2020年はなんといってもコロナ禍の一年でした。ことによると2021年もそうかもしれません。日本のみならず世界中の人々が、未知のウィルスによって苦しめられ、生活様式の変容を余儀なくされました。
マスク、ステイホーム、ソーシャルディスタンス。当たり前にあった日常が失われることのつらさを、だれもが思い知った年だったのではないでしょうか。

文芸同人誌『ロゼット』が企画されたのは、ちょうどそんな時期でした。
創刊号の特集テーマは「春を待つ」。
目下のコロナ禍を厳冬にたとえるなら、いまはみな春を待っているといってよいでしょう。

例えば受験生が志望校に合格することを「春が来た」というように、念願の成就や夢の実現は、しばしば春の訪れにたとえられます。
しかし本誌に寄せられた作品があらわす「春」は(写真作品や、自由題で書かれたものも含めて)いずれも常人には得がたい華々しい成功や幸福の訪れではありません。
もっとささやかでつつましく、それゆえに切実な、明日もまた今日と同じように生きていくための希望です。
このありようこそ、主宰の伴さんが求め、作家陣と写真家が応えた「いま」の文学のかたちなのだと感じました。

コロナ禍は、いまだ先行きが見えない状況が続いています。
たとえコロナ禍が過ぎ去っても、生きているかぎりはまた別の厳しい季節が訪れるでしょう。
どこにも行けないつらさに耐えかねる日は、『ロゼット』をそっと開いてみませんか。
きっとあなたにやさしく寄り添ってくれる本だと思います。

泡野瑤子

春ではない、けれども春はきっと巡り来る……どこかにある希望を描く作品集

まさに「春を待つ」。
いまはまだ春ではない、けれども春の気配はある。あるいは春は巡り来ると信じている……

見事にテーマが統一された作品集。
ことに沙耶さんによる表紙は、テーマそのものと言える。
八名の小説も様々な角度から「春を待つ」ことを掘り下げていて面白い。

「霜柱」梔子花さん
就職に失敗した主人公。実家で鬱屈した生活を送る主人公の気がかりは姉の子供で……
家族の存在が「春を待つ」「春へ向かう」原動力になる、希望が見える作品

「氷解」栗原夢子さん
周囲に理解されない上司の見えない一面を、事情によって主人公は知っている。氷の下のその素顔は……
愛ではなく、哀れみでもない感情でつながる二人の間に育まれるもの。春の近づきを感じさせる作品。

「冬眠ロケット」紺堂カヤさん
家族の眠るロケットのなかで主人公は地球に帰還できる日を待っている。いつかすべてがもとに戻る日を目指して待つ主人公の姿は、繭の中で春を待つ蝶のようにも思える。

「はるちゃん」瀬野ひとみさん
おなかのなかで上手く子供が育たない……そんな焦りのなか主人公が選んだのは。生まれないままに去ってしまった子供たちへの愛惜を胸に春を待つ主人公の姿が美しい作品。

「オン・マイ・ピリオド」みなもとはなえさん
結婚・妊娠・出産。それぞれの事情、それぞれの肉体。他愛のない会話の中にも人は傷つき……それぞれの人生、それぞれの春を探して日々を暮らす主人公の独白が愛しい作品。

「陸地の人魚 オリンピアの夏」神谷アユムさん
事情で祖母の民宿を手伝う主人公が出会った不思議な客……何気ない会話に、自分を取り戻していく主人公の不器用な姿の向こうに、春の気配がある。

「夜船」マツさん
高校二年の夏に亡くなった親友に「会う」ため、主人公はお盆にその親友の墓におはぎを供える。そして十年目。
なぜ親友は亡くなったのか、自分はこれからどうすべきなのか……まどろみの向こうに、春は待っている。

「未来」伴美砂都さん
失われてしまいそうになる世界に生きる主人公たち。微かな希望。
読後、もう一度表紙を見たとき、その希望の美しさとしたたかさに思いを馳せる作品。

個々の独立した短編集でありながら、一冊でひとつの作品と言っていい完成度を持っています。お勧めです。

宮田秩早