『蝶を吐く女』より
フィスチェの旅路に地図はない。アテなんてもっとない。全てが偶然と運を重ねて連ねての歩みであり、見知った場所――例えばパトロンたる人物が住う館――に意識して行く以外は、どこにどう辿り着くのか、当の本人でさえ分からない。
だからこそ、身を沈めるような柔いソファに腰を落ち着かせたフィスチェは思うのだ。よかった、今回は比較的安全な場所だ、と。
踏み出した足が捉えたのは、白亜の館。一辺がない四角のような構造の建物の西、室内とは思えない潤いと緑に囲まれた空間であった。
だぁれ、あなたは誰? どこから来たの? お客様? けれど、どうやってここに入ってこれたの?
小さく囁く声はいずれも幼子の声音だが、羽音よりも多い声の輪唱に目を白黒させていたフィスチェを救ったのが、館の主たる女だった。
「――いやはや、玄関から入って来ない客人もいるが、植物園に落ちてきた客人は初めてだよ」
からりとした声で笑いつつ、フィスチェの向かいで堂々とソファに身を沈め、女は続ける。
「それで、きみは世界を渡る旅をしている、と」
「はい」
女の問いに素直に頷けば、彼女は、ふむ、と一つ唸った。
女曰く、フィスチェは何の前触れもなく屋内に、更に付け加えれば植物園の奥、妖精たちが住う区域に落ちてきたらしい。幾重もの声は妖精だったのか、と頭の隅で思いつつ、フィスチェは用意されたティーカップに手を伸ばした。それから、ちらりと視線を女から、だだっ広い室内――女曰く執務室――全域に変える。
右手一面は窓、左手一面は蝶。
大小色彩、様々な蝶が同一の硝子の中に等間隔で並び日の光を受ける様は、美しいを通り越した何かを覚える。無理矢理文字に当てはめるなら、狂気。
安全な場所だと判断するには些か早かったかもしれない。それでもティーカップを手にして、甘い香りを纏う香草茶を口に含んだのは他ならぬフィスチェの意思である。