生き物の気配が、遠い。故郷と呼べる森に足を踏み入れたアンナが最初に感じたのは、静かすぎる世界。
背の高い木々は揃って陽光を求め枝葉を上へと伸ばし、それが天蓋となって北の森シュバルチェに影を落とす。加えて絶えず霧を纏う森の中は、夏至を目前に控えているというのに薄ら寒い。あっという間に指先が悴み、麓の村での汗ばむ陽気が嘘のよう。
広がった筒状の袖や裾にびっしりと温度調節の術式文様を縫った白い外套でも、曝け出したままの頬や指先から体内に蓄えた暖かな陽気を奪っていく。たまらず指先に息を吐きかければ、薄い唇から霧より深い白を纏う呼気が沈んで混じった。
柔い土の感触と静寂が与える懐かしさに身を浸らせたい気持ちを、絶えず周囲に視線を向けながら進むことによって紛らわせる。普通の森なら姿見えずとも存在する、足元を駆ける小動物の気配を感じ取れず、遙か頭上の木々が風に揺れる音ばかり霧の中で響く。
本当に、何もかもが、無くなってしまったのか。
敢えて思考の外に追いやっていた事実が、すっかり長くなった栗色の髪と一緒になって、ひたひたと背を這う。暗い気持ちに囚われながらも、冬でも緑を携える葉に似た深い色の目が、記憶にある場所を見つけ出し、同時に陰る。
森の木々を用いて作られた家屋は、壁面に施された保持の術式ごと多数の草花に侵食されていた。魔術は経年劣化を伴うもの、長年調整すらされていないと、こうなるのか。初めてに限りなく近い状況を目前に実態は伴わず、一人現実から置いてけぼりを喰らった気分だ。
生い茂る足元を伏せた目で眺め、アンナは持っていた木の杖で扉を覆う蔦を引いてみた。びくともしない。仕方なく鞄から鋏を取り出し、蔦を切ってから取っ手を握ってみた。全力で押す必要があったものの、扉は壊れず開き、かつての住人を招き入れる。
視界に広がる世界の狭さに、アンナは足を止めた。小さな少女にとって世界の殆どだった家は、本棚が壁になった大きめの居間と小さな寝室二つで構成されていた。
杖を小脇に抱えて一歩、すっかり小さくなってしまった世界へ慎重に踏み入れるも、積もった埃が薄暗い視界のあちこちで舞う。咄嗟に袖口で口元を覆いながら、アンナは手探りで鞄から目的のものを取り出した。
軽く固いものが擦れ合う高い音を響かせ、それは作り手たるアンナが上蓋に触れることによって発動する。一目ではカンテラの形状、しかし中に輝く光は白く、炎由来のものではない。