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彼がコオトニイ行きを決心したのは、ダンスの教師と逃げた妻から感嘆詞まみれの謝罪の絵葉書が届いた朝のことだった。コオトニイは彼の母親の故郷であり、祖父母の住んでいた家がある。つい二年前に祖父が、半年前に祖母が鬼籍に入ったが、家には買い手がつかず更地にしようという話になっていた。ところが、老人二人が六十年に渡って溜め込んだお宝、といっても金銭的価値はままごと遊びのカップアンドソーサーみたいにかわいらしい、のが小さな家いっぱいに詰まっているということがわかり、整理に二の足を踏んでそのままになっている。この際いい機会だから、遺品の整理がてら少し社会生活を休もう。そう考えて会社に休暇届を出す間も彼は自分の背中で、同僚たちがこの寝取られ男に嘲笑を送っているような気がしてならなかった。 |
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ホワイトとレモンイエローのコントラストの美しい表紙を開くと、レモンイエローの遊び紙の向こう側に、清冽とした響きを秘めたタイトルが並ぶ。 短歌や俳句を元に「解凍」された言葉たちは、誰かの岸辺から流れ着いた言葉たちが解き放たれていくのを見守るようなさざ波をやわらかに巻き起こす。 「わたし」と「あなた」の織りなす物語はどれも、ひとところには留まっては居られない寂しさ、幾重にも広がる追憶の色、喪失の哀しみ、それでも絶えず残り続ける想いの在り処をそっと手渡すかのように、こちらへと差し出してくれる。 「物語」は言葉に翼を与える。わたしたちは何にでもなれる、どこへでも行ける。 宇宙へと軽やかに飛翔した言葉たちはひらりと旋回してわたしたちの手の中へ降りてくる。 遠い光のようにきらめいて見える「彼ら」の物語が連なりゆく中、「それでもわたしたちは自分以外の何者にもなれない」と、軋んだ想いが解き放たれていくかのように静かに語りかけてくる表題作「きみは」は、やわらかに胸を刺すよう。 向き合うことを恐れてしまうような、生身のわたしたちが共有しづらい感情を取り出し、「そこにある」ことを受け止めてくれるこの物語は、とても優しい。 「永久田のこと」「コオトニイタウン」がとても好きです。 | ||
推薦者 | 高梨來 |
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小説でも映画でも、 それを「好き」ということをちゃんと言葉にしやすい作品と そうでない、どうすれば「好き」ということが伝えられるのか 分からない作品とがある。 何がそれを分けているんだろう、と少し考えて、 ひとつ、ふと思い当たることがあった。 その「好き」が「美しい」という感想に分類されるとき、 それを言葉にすることがどうにももどかしく感じるのだと思う。 「その美しさは君自身の目で確かめてくれ!」なんて 出来の悪いゲーム攻略本の最後のページみたいなことを 言ってしまいそうになる。 でもこの本は、ほんとうに手に取って開いて読んでみてほしい。 「さまよえるベガ・君は」 僕はこれを読んで、「美しい」という感想をもちました。 短歌を小説という形に書き起こした、 いわゆる「解凍小説」というものです。 いつ見ても思うけど、この解凍小説という言葉おもしろいですよね。 57577の言葉に圧縮された世界を 元通りの形に戻しちゃう。 ときどき、それは「解答小説」とのダブルミーニングなんじゃないかと 思うことがある。 短歌で与えられた問いに、それはこういうことだろうと解答を返すんじゃないかって。 9篇からなる短編集。 それぞれにもとになった短歌があって、 各作品の最後に記されてある。 選ばれた短歌がまたよくて、 小説と、そのあとに読む短歌と、二度おいしい。 小説を読んで広がった世界が読後にすとんと圧縮されるみたいな、 なんだか不思議な感覚を味わえる。 僕はこれを恋愛の本だと思って読んだ。 わかりやすい恋愛なんてひとつも出てこない。 ああ、そうなんだ。 そういうふうにややこしくて、わかりにくくて、 淡くて、よわくて、頼りない。 そんな恋愛を、僕たちはきっと知っている。 気づかないうちに。 だからこの本を読んでいると、ふいうちみたいに泣きそうになる。 涙。海。宇宙。 本の表題にもなっている「さまよえるベガ」は宇宙を旅する話だ。 それはなんとなく、小説を読む風景と相似する。 僕たちは決して簡単ではないやり方で、それを求め、 手に入れたなら帰らなくてはならない。 | ||
推薦者 | にゃんしー |