出店者名 白昼社
タイトル 文藝誌オートカクテル2015 耽美
著者 アンソロジー
価格 1000円
ジャンル 純文学
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紹介文
執筆陣:伊藤なむあひ・にゃんしー・赤木杏・ひのはらみめい(そにっくなーす) ・山本清風
牟礼鯨・霜月ミツカ・恣意セシル・ちょまっこりーな・馬場めぐみ・水銀・eb・泉由良
装幀:なかの真実 (イラスト)
10代から30代まで、多彩かつ気鋭の13人が、小説で、詩歌で、エッセイで、
「?美?とは」について真剣、かつ意欲的に取り組む、1冊。
赤木杏による映画コラムの別冊付属。
悲しみも喜びも、優しさも乱暴も、理性も酩酊も、
それらを美へと変換することを可能にすることが出来るのはおそらく人間のみ。
「美」は人間の文学である。

 パピ子はかわいそうな女の子だ。プリンは一日一個までだしゲームは一日一時間まで。そのうえ昨夜、ダンスホールにてバラバラ死体となってしまったのだ。

 かわいそうなパピ子はダンスホールの片隅、誰もが音楽に気を取られている間に何者かによってバラバラにされた。彼女のそのまだ余計な肉のついていないほっそりとした右手、右足、左手、左足、そしてつるりと卵形の小さな頭は切断され埃だらけのフロアに無造作に転がり、単なる内臓の入れ物と化してしまった胴体にいたってはその日たまたま近くの動物園から逃げ出したワオキツネザルに親と間違えられたのか素早く持ち去られてしまったのだ。

      伊藤なむあひ「星に(なって)願いを」
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 その島に名前はなく、十人の子どもたちはその島を「セカイ」と呼んだ。
 その島に大人はなく、十人の子どもたちはたった一人の老婆を「コトリ」と呼んだ。
 十人の子どもたちに記憶はなく、いつからその島にいるのか、なぜその島にいるのか分からなかった。
 十人の子どもたちはみんな幼かった。
 四人の少女たちは初潮をまだ知らなかった。彼女らの名前は「アオ」「キライ」「ヒメ」「オバケ」といった。
 五人の少年たちは自慰をまだ知らなかった。彼らの名前は「イルカ」「シャチ」「ヒイロ」「タヌキ」「キツネ」といった。
 もうひとりの子どもは「ヨミテ」と呼ばれた。
 島は綺麗な正方形をした巨大な一枚岩で、太い四本の柱に支えられて海上に浮かんでいた。

      にゃんしー「コトリ」
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 テキーラサンライズなるカクテルあり。オレンジジュース四に比しテキーラ一を攪拌、適宜グレナデンシロップを投じて氷を配す、夜明けの寒暖入り混じりたる気色に似て風情ある、我が腕より伸びるチューブの血と生理食塩水の混じりたる様は夜明けにも似てあり、点滴としては潮時であった。
「点滴を交換します」

      山本清風「意識か?頭蓋の意識する」
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肌脱ぎの背を爪あとの赤さかな

      牟礼鯨「色島」
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散る花も腐る果実も老いる身もなべて夜景を見ているようだ

      馬場めぐみ「ぼくらのはなし」
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「世の中には三種類の生き物がいる」
 というのが雪歩の口癖だ。
「熊と」
「熊に食べられるもの」
「それから」
「熊を殺すもの、だ」

      eb「君ベア」

 ほか


「美しいとは?」を問いかける"純文学"
文学フリマの人気カテゴリのひとつである純文学。
その定義はおそらく多くあって、
あるいはそれは読者の数だけ存在するのかもしれません。
もし純文学の定義を
「ストーリーは皆無でも文章・文体がひたむきに美しいこと」
に与えるとすれば、
この耽美アンソロジー、極めて純度の高い純文学と云えると思います。
とにかく、よく分からない作品が多い。
分かられることを拒む、分かろうとしてはいけないと語りかける。

テーマ"が耽美"ということですから、谷崎潤一郎のような
作品が揃っているかといえば、そうでもない。
これは耽美そのものというより、各人の思う耽美を追いかけようとした
アンソロジーなのだと思います。
だから必然的に読者にも投げかけられる。
「耽美ってなんだろう?」

例えば深夜、強めのお酒を減らしながら、
よるべない読後感に浸ることをお勧めします。
推薦者にゃんしー