キャンディと王様・前章
2014.03.16(Sun)
これは、
千船女子高野球部エース・乙彼若菜と、
捕手兼キャプテン・神田川水樹と、
マネージャー・青井海が、まだ中学生だったころのお話。
乙彼がまだ「キャンディ」ではなく、
水樹がまだ「王様」ではなかった頃のお話。

   ○

「おーい、乙彼。早くしろや。どんだけ待たせんねん!」
 水樹の苛立った声が、マンションの廊下に響き渡る。
「わーってるっ! あと30秒!」
 部屋の中から、乙彼が返事をする。
「寝坊すんなよなーいつものことやけど」
「待ってるから大丈夫だよー」
 海がのんびりした声を掛けると、急に静まりかえった部屋の奥から、
「痛っ! 足の小指打ったっつぅっ!」
 という声が返ってきた。
 水樹と海が、顔を見合わせ苦笑する。


 せわしない足音を立てながら、乙彼が玄関まで走ってきた。
 まず目線を海に向けると、顔を綻ばせて嬉しそうに言った。
「えーっ! 海、振袖!? ちょーきれいじゃーん。やばい元旦からいいもの見た」
 海はゆったりとした袖を持ち上げるように両手を頬にあて、恥ずかしそうに笑った。
 淡いピンクを基調とした下地に、白色の小振りな花が上品なアクセントを咲き、
 いつものポニーテールも、こんもりとした花飾りでかわいらしく彩られている。
「おい、乙彼。うちには一言ないんかい」
 そう水樹が言うと、ようやく乙彼は目線をそちらに向けた。
 水樹が着ていたのは小紋で、ほぼ黒地に小さな紋様があるだけのシンプルな着物だった。
 彼女にしては珍しい、そして明らかに馴れていない化粧は厚く、
 派手な色の口紅が悪目立ちしている。
 自分で切ったはずのショートヘアはボーイッシュなままで、整えた表情が所在無さ気だ。
 乙彼はしばらく水樹を見つめた後、意地の悪い笑みを浮かべて、
「……昔、ヨシモトにこういう芸人いたよね」
 と言った。水樹は頬を膨らませ、
「どうせうちはそうですよー」
 と返す。海が、ころころと笑う。


気の強い水樹と口の悪い乙彼がいさかいをして、それをたしなめるのが海という関係性は、
彼女たちが仲良くなったきっかけであるソフトボールの場でも、
それ以外のシーンでも変わらない。
乙彼と海は同じ中学校で、水樹は別の中学ではあったが、
放課後や休日、またソフトボールの試合の後などにはいつも、
遊んだりお茶をしたりしていた。
彼女たちが住む尼崎の街には遊ぶ場所は少なかったため、
大抵は海の部屋に集まって、映画や音楽をかけながらのんびりと過ごす。
外でお茶をするときには、いつもマクドナルドかケンタッキー。
それはまた、尼崎市南東部のひなびた地域で暮らす少女たちの、標準的な日常でもあった。


元旦であるこの日、3人で集まって、初詣に行くことになっていた。
行先は、京都・北野天満宮。
乙彼の家がある杭瀬から北野天満宮最寄の北野白梅町駅まで、
阪神・阪急・京福電鉄の乗り換えを費やして、2時間近くかかることになる。
それでもなお北野天満宮に行く理由は、そこが学問の神様だからだ。
彼女たちは1ヶ月後には、高校入試が控えている。
同じ高校に行きたい、とは3人とも口に出しては言わなかったが、
当たり前のようにお互いそう思っていたし、揃って手塚山高校への願書を準備していた。
手塚山高校は奈良県にある進学校で、入試の偏差値は70を超える。
女子に関して云えばお嬢様学校としても知られており、関西で憧れる女子は多く、
3人もその例に漏れなかった。
最近では海の部屋に3人で集まって勉強したり、受験対策を交換することも増えていた。


「つーか乙彼、その恰好で京都いくん?」
 水樹が言う。
 乙彼は玄関脇の壁に据えつけられている全身鏡で自分の姿を確認した。
「え、なんかへん?」
「何でショートパンツやねん。外、めっちゃ寒いねんぞ」
「なによ。あんたが早く準備しろって言うから、適当にそのへんの着たんじゃん」
 水樹と乙彼が言い合いをするのに割り込んで、海が、
「せめて上着着たほうがいいよ」
 と言うと、乙彼はようやく素直に頷き部屋の奥に戻って、
 黒いダウンジャケットを着込んで出てきた。
 ずいぶん大柄なそれは、ジーンズ生地のショートパンツまですっぽり覆い隠している。
「父さんまだ寝てるからジャケットもらってきた。あの人どうせ寝正月だから」
 乙彼はダウンジャケットの裾から覗く薄小麦色の太ももを器用に動かすと、
 キャメル色のムートンブーツを穿き、
「じゃあ、いこっか」
 と言った。


 天気予報に反して、この日雪は降らず、いたずらのような快晴となった。
 その気持ちのよい天候は、
 普段なら寝正月を決め込みコタツで過ごす筈の人々までも誘い出してしまったらしく、
 初天神の屋台の並ぶ北野天満宮は例年以上に人で埋まっていた。


「もういいー。水樹と海、私の分もついでに祈ってきて」
 ぎゅうぎゅうの人混みの中、真っ先に音を上げたのは、やはり乙彼だった。
 彼女は万事に対して、無気力なきらいがある。
「おい、賽銭箱まであと少しやろ。行くぞ!」
 一方、分かりやすい体育会系で、万事熱意のある水樹は、
 乙彼の腕を引っ張って人混みの中に割り込んでいこうとする。
「どうせ私が願っても叶わないから。水樹が祈ってきてよ、ラッキーガールでしょ」
「何言うてんねん。おい、行くぞ! しゃがむな!」
「水樹、いつも大吉だし、宝くじだって当ててたじゃん。行ってきてよー」
「うち、着物やねんぞ。お前、身軽やねんから行けや!」
「いーかーなーいー。引っ張らないでよバカ!」
 海は、人混みの遥か遠くに見える賽銭箱を眺めながら、
「んー……でもこれ無理だよ。あと1時間くらいかかりそう」
 と言った。
「じゃあどうすんのー。高校合格、祈らずに帰るのもやだよ」
 乙彼が駄々をこねるように言うと、海は、ぱっと表情を明るくしてこう提案した。
「こうしようよ!
 乙彼がさ、ここからお賽銭投げて入れるの、そんで水樹が祈るの。どう?」


 3人は人の少ないエリアに移動して、5円玉を3枚、糸でくくりつけた。
「いつもウインドミルだからなあ。オーバースローで投げるの、初めてかも」
 乙彼はそう言って軽く投げる振りをすると、水樹を振り返って言った。
「ねえ水樹、キャッチャーでしょ。サイン出してよ、投げ方分からないからさ。
 誰のフォームで投げたらいいか」
 水樹は不安そうな顔で答える。
「お前この距離から、賽銭箱に入れられるんか? むっちゃ遠いぞ」
 乙彼は、笑って言った。
「あんたがサイン出してくれたら、大丈夫だって。
 ほら、私、あんたのサインに1回も首振ったことないじゃん。
 水樹もさ、私の球、1回も後ろに逸らしたことないじゃん。
 絶対、入れるって」
 水樹は、自信に溢れた乙彼の顔を見て、ようやく表情を緩めた。
 それから、賽銭箱を指差し、
「近鉄のときの岩隈久志!」
 と言った。
 乙彼は、
「マニアックすぎてわからん」
 と笑って言い、しかしきれいなフォームで、右腕を振りぬいた。
 高く上がった5円玉は、ゆったりとしたカーブを描いておそらく賽銭箱に吸い込まれた。
「水樹、願い事、早く!」
 海が言うと、水樹は手を合わせ早口で、
「同じ高校にいけますように!同じ高校にいけますように!同じ高校にいけますように!」
 と唱えた。
「流れ星じゃないんだから」
 乙彼が笑った。


『同じ高校にいけますように』
 その3人共通の願い事は、ひとつの絵馬に並べて書き、絵馬掛所に奉納した。


水樹がトイレに行っている間、乙彼と海は、絵馬掛所に並んだ絵馬を眺めていた。
ユニークな絵や真剣そうだが何故か可笑しい文章の絵馬に口の悪い乙彼が茶々を入れ、
海はそれをたしなめている。


「ねえ君ら、ふたりなん?」
 声をかけられて、乙彼と海が振り返ると、大学生風の男がふたり、立っていた。
「君ら、まじでかわいいな」
「これから遊びに行かへん? 車あんねんけど」
「振袖きれいやなあ。彼氏とかおんの?」
「お前アホか。こっちの子のがかわいいやん。足、モデルみたいやね」
 乙彼と海は、戸惑ったまましばらく固まっていた。
「ごめーん。乙彼、海。トイレむっちゃ混んでてさー」
 そこへ水樹が着物の裾を崩しながら駆け寄ってきた。
 男ふたりは振り返ると、水樹の顔を見てぎょっとする。
「え。何か用ですか?もしかしてナンパ?」
  水樹が、頬をすこし染めてそう言うと、ふたりは手を振って、
「……やっぱいいです」
 と言った。
「やっぱって何や! お前、うちの顔見て言うたやろうがー!」
 その表情を見て、水樹が男性に摑みかかる。
 海が慌てて水樹を取り押さえようとする一方、乙彼は大きな笑い声を上げて言った。
「水樹ー!目の周りのマスカラが汗で落ちてデーモン小暮みたいになってるよー!」
 爆笑する乙彼と反論しようとする水樹。海は制止するのに忙しい。


 帰り道の阪急電車の中、混雑を避けるように連結部付近で吊り革を持ち、
 3人はお喋りをしていた。
 海の口数は少なく、乙彼と水樹が先ほどのナンパの件で言い合いをしている。
 ふとしたタイミングで、海が口を開いた。
「……乙彼と水樹ってさ、高校入ったら、野球どうするの?」
 乙彼は、吊り革をゆらゆら揺さぶりながらこう返した。
「手塚山高校は、ソフトボール部ないでしょ。あってもどうするかなあ。やるかなあ。
 水樹はどうすんの?」
 水樹も気怠い口調でこう返す。
「うちもやらへんかなあ。手塚山っていろいろ忙しいやろ。勉強とか」
「勉強もだけどさ、いろいろやりたいことあるじゃん?」
「え、乙彼のやりたいことって何?」
「まあー、彼氏とか欲しいかなあ、みたいな?」
「それは分かるわ。手塚山、かっこいい人多そうやもんな。医学部目指してるのとか」
「うっわ、計算高! つーか水樹、化粧はやめたほうがいいよ。まじで」
「うっさいわ、これからうまくなるわ!」
「まあ手塚山、制服もかわいいし、いいよねー」
「楽しみよなー」
「なんにしてもさ、まずは合格しないと」
 乙彼は笑った。
 海はじっと黙り込んで、流れていく車窓を眺めていた。
 刈穂が乱雑に残された田んぼは養分を残し、夏には青々しい水稲が萌え立つはずだ。
 それともあのときの咽返るような青臭さは、思い出のなかにだけ残って、
 瑞々しさを失っていくだけなのだろうか。
『乙彼と水樹がね、野球をするのを見てるのが、大好きだったんだよ』
 そんな我儘を言うには、海はいい子であり過ぎた。




「……やっばい……どうしよ」
 手塚山入試の前日、直前模試の結果を配られた海は机に分かりやすく突っ伏していた。
 乙彼が海の右手から模試の結果を奪い取ると、ざっと目を通す。
 判定の欄には「C」と記載されていた。
 これは数字でいえば40%の確率で合格であるが、意味するところは合格圏外である。
 乙彼の結果は「A」で、これは80%以上の確率で文句なく合格圏内になる。
 中学が違う水樹は、本模試の結果を昨日既に入手していて、
 聞くところでは「B」のやはり合格圏内ということだった。
 このままでは、海ひとりが手塚山高校に合格できないということになる。
「海、大丈夫だって。国語と英語は私よりいいじゃん。
 社会と理科も悪くないし。数学だけ頑張れば、絶対合格できるって」
 乙彼が海の背中をさすりながらそう言うと、海は額を机につけたまま、
「無理だよぅ数学苦手だもん。ずっと苦手なのに明日急にできるようになるわけないよ」
 と返した。
 乙彼が、海の右脇をくすぐる。
 海は、
「ひゃっ」
 と声を出して、ようやく頭を上げた。
「じゃあさ、今日、最終特訓しようよ。海の部屋でさ、水樹と3人で」
 乙彼が言うと、海は口元を引き締めて強く頷いた。


手塚山高校入試前日、海の部屋には、いつにない緊張感が満ちていた。
乙彼・水樹・海の3人とも黙り込み、ノートをこするシャープペンシルの音と、
マグカップに注がれたホットミルクをすする音だけが響く。
時折、海が数学に関して質問をすると乙彼と水樹が手早く答え、また問題集に向かい合う。


「……隣の部屋からなんか、聞こえない?」
 乙彼が、ふとそう言った。
「空が、DVD観てるのかも……」
 海が、シャーペンを動かす手を止めないまま、そう返す。
 空というのは、海の二つ下の妹である。
「ちょっと、注意してくる」
 乙彼がそう言い、立ち上がって部屋から去って行った。
 しかし、しばらくしても帰ってこず、また壁の向こうから聞こえる音も止むことが無い。
「あいつ、何しとんねん」
 水樹が言い、また立ち上がって部屋を出て行ったが、
 彼女も帰ってこず、隣の部屋から聞こえる話し声と音は、むしろ大きくなった。
 仕方なく、海は、隣の部屋を覗いだ。


 中では、乙彼と水樹と空が、『新世紀エヴァンゲリオン』のアニメを見ていた。
「ちょっ、何してんの」
 海が声を上げると、乙彼は真面目な顔で、
「海もこっち来て座りなよ。すごい面白いよ」
 と言った。
「ちょっとー、受験勉強は……」
 海がそう言うと、水樹が、
「あと1話だけ! 悶々して勉強するより、見てからやったほうが集中できるから」
 と手を合わせ、拝むようにして言った。
 仕方なく、海も隣に並んで、エヴァンゲリオンを観始めた。
 そして、乙彼や水樹と同様に、やがてアニメーションに取り込まれていったのだった。


 3話目が終わった段階で、乙彼が言った。
「これ、全何話なん?」
 海の妹・空が、あくびをしながら返す。
「26話までですよ。でも、私、6話までしか借りてきてないですから」
 乙彼が、声を荒げた。
「なんで6話までしか持ってないのよ!ちょっと空、ツタヤ行って借りてきてよ!」
「え……。別にいいけど、お姉ちゃんたち明日入試なんじゃ……」
「エヴァから出題されたらどうすんの? 私らが落ちたらどうすんの!?」
「はぁ? はあ……」


空は諦めてパジャマと兼用しているジャージ姿のまま、
残りの巻のDVDを借りに自転車を走らせた。
全巻を抱えて帰ってくると、乙彼・水樹・海は大喜びでそれを受け取り、
ハグしたり空の頭を撫でたりした。
空は、すこし可哀そうなものを見る目線を3人に向けた後、先に眠りについた。


 ようやく全巻見終えた後、3人は、放心したような顔で、じっと座り込んでいた。
「……結局、つまりどういうことやったん?」
「分からん……でも、むっちゃおもろかった、と、思う」
「うん」
「うん」
「たぶん、うん」
「……むっちゃおもろかった」
 乙彼と海が、強く頷く。
「だいぶ時間使っちゃったね。今、何時?」
 乙彼がそう言い、壁時計を見上げると、とっくに朝の七時を回っていた。
「えっ!!」
 乙彼は、半分眠りかけている水樹と海を叩き起こすと、制服に着替え始めた。
 朝ごはんも食べずに飛び出ると、阪神電車の千船駅に向かい走る。
 入試開始時刻には、ぎりぎり間に合った。



 入試を終えた後、乙彼は待ち合わせしている学園前駅近くのスターバックスに向かった。
 店中では、水樹はホイップをたっぷりのせた珈琲を片手に、
 椅子にもたれかかって居眠りをしていた。
「どうだった?」
 乙彼がそう言い椅子を蹴ると、水樹はびくっと身体を仰け反らせた後、
「鴨長明は得意だから、方丈記が出てよかったわ」
 と、ぼんやりした口調で返した。
「……水樹、大丈夫? 方丈記は出てないよ。古文で出たのは徒然草だよ」
 乙彼が呆れた口調でそう言うが、水樹からは返答がない。
 しばらくして、目の下に大きなクマを作った海が、危なっかしい足取りで入ってきた。
「どうだった?」
 乙彼がそう訊くと、海は、
「清少納言だけは得意だから、枕草子が出てよかった」
 と言う。乙彼はもはや苦笑いするしかない。
 今更になって、やっと少しは目が覚めたらしい水樹が、
「で、乙彼はどうやったん?」
 と訊いた。
 乙彼はピースサインを決める。
「私も、全然だめだった!」
 乙彼が笑い、水樹と海も、笑った。


「ねえカラオケいこー。カラオケー」
「ええねー、徹カラや、徹カラしかないなもう」
「あっ私『残酷な天使のテーゼ』歌おっ」
「ちょっと海! ずるいよ! 独りで取らないでよ」
「乙彼は『Fly me to the moon』歌ったらいいじゃない」
「何アホな取り合いしとんねん。3人で歌えばええやん」
「3人て。何、ちゃっかり自分も入れてんの!?」
「手塚山高校落ちたらさー、行くの、どこになるんやっけ?」
「千船女子高だよ。地元の。公立の」
「うっわ。だっさ。あそこ、制服かわいくないねんなー」
「しかも女子高だし。おもんなさそう」


 海が笑って、
「でもさ、3人で同じ高校行くんなら、何か楽しいことありそうじゃない?」
 と言うと、乙彼と水樹が声を揃えて、
「まあねー」
 と返した。
「野球も、しちゃったりとか」
 海がいたずらめかしてそう言うと、
「それはないねー」
 と乙彼は返し、しかしきれいなピッチングフォームで、右腕を振りぬいてみせた。
「ストライーク!」
 水樹が、そう言った。


彼女たちが、千船女子高という何処か不思議な高校で、
夏を野球に捧げることになるのは、まだしばらく先の話である。


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