【糸】 何もかも、以前のように戻れる。 そう思っていた。 現実は違った。 残されたのは、投薬が必要な身体と鎖骨の少し上を真横に走る6センチの傷痕。 抜糸が不要な分、身体に負担はかからない。 溶ける糸で縫合されていても、手術をしたことは目に見えて明らかだ。
この傷がわたしの生きる証になると、ひとは言う。 死ななくてよかったじゃないかと、誰かの声を聴く。 そんな簡単に割り切れるものではないのに。
【縫】 共働きの両親を持つ一人っ子の私は、祖母に預けられることが多く、よく手仕事を眺めていた。 母は「危ないから」と私の前では縫物をしない人で、小学校中学年ぐらいには、 祖母の真似事をするようになった。 さすがに普段祖母が使う仕事道具には触らせてもらえなかったが、初めて指ぬきをもらった日には嬉しくて寝つけなかったほどだ。
裁縫を習う時には、祖母が『周りに合わせなければ』と、流行のかわいい裁縫セットを学校経由で一括購入した。 道具の手入れ方法は祖母が教えてくれた。 「手入れして長く使えば、次第にさつきの手になじむからね」 祖母はそれからも時折、繰り返し私に言い聞かせた。
【縁】 家を建てようと決めた時、夫は言った。 「縁側が欲しいなぁ……」 「えっ、書斎じゃないの?」 一人になりたい時もあるだろうと、お互い二畳か三畳分の小部屋をそれぞれ作るつもりでいた。 それに男の人は本を読まない人でも、書斎を欲しがると既婚の先輩や友人、そしてお互いの親からも聞いていた。 「それもいいんだけど……」 「何?」 「……縁側で、ひなたぼっこをしながら、猫を撫でまわしたいんだ……」 夫は若干、照れながらつぶやいた。
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