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おそらく食卓にある詩情 |
書籍名 |
その人の名は反逆と云ひます |
作家名 |
かかり真魚 |
購入イベント |
ひみつ |
タグ |
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紹介文 |
くだはての夜をもやせば雷鳥の聲ひびきたり西の花野に
旧仮名遣い、古語を用い、基本的には57577の定型を守る歌集である。「雷鳥」もひらがなであれば「らいてう」と表記されたに違いない。形だけ見ると「いかにも」な短歌。けれども、現代語を話し、現行の仮名遣いで書いているはずのその人の、生活実感のようなものが深く染み付いているような気がする。
魚卵手に受けてゐるとき血が重くなるやうでまた泣いてしまった
魚卵を手に受ける、とはどういうことだろう。いくらやたらこはスーパーでも売られているけれど、日常生活で魚卵を手に持つ機会自体なさそうだし、どういう状況なのか想像しづらい。けれども、ともかく、人が手に持った魚卵はその時点で死んでいる。そしてその人は泣く。それは「人は皆いのちを食べて生きている」というような道徳的な題目以前の、存在そのものに対する直感的な涙であるような気がする。
アリゲーター梨が熟れゆくまひるまに祈りのやうな放尿をする
この歌集には、「ゲラサ」や「徴税人マタイ」、また「実存主義」「フーコーの振り子」のような、宗教・哲学用語が散りばめられていながら、そこにはそれらの単語にまといつく難解さがない。たぶん、それらはその人にとってとても身近なのである。食卓に塩と一緒にならべられていたり、枕元に置いて、手にとって時々かじってみるような無造作な配置でそれらは現れる。私にとってはどこか遠い場所にあったそれらの単語、が表しているもの、が、胸にせまり、苦しい。 好きだなと思う。言葉にしてしまえばかくも素朴なのであるが。
初乳癌検査受けつつ窓見ればむかうに火事の兆しを見たり いづれ名も忘却れてしまふひととゐて空気ばかりの麵麭を千切りぬ
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