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仕事終わりに同僚と飲みに行って話し込んでいるうちに終電を逃し、山手線は池袋止まり。池袋まで帰れただけでもいいか、と諦めてタクシーに乗り込みました。 |
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日常を綴るエッセイほど、著者を丸裸にする文学はあるのだろうか。 ちょっと遠出したり、いつもより長く……とはいえ二、三日だが隣県に帰省した話はあれど、日常の枠に収まるもの。評論臭さが鼻につくこともなければ濃さ際立つテーマもない。あるのは、生活の中で体験したこと、そこから思ったこと。それだけである。 このエッセイが好きなのは、著者のニュートラルな視点や冷静な文章が浮き彫りにしているもので、著者の人柄、人物像と呼べばいいだろうか。つまるところ私はこの著者をとても好きなのだと思う。著者としてである以上に人間として。 実際に知る人物であるがゆえの加点もあるだろうが、ここに書かれているような話を本人と直接話すことはない。頻繁にではないが会って食事でもしながら話すことも日常の他愛もない話だから、もしかしたら同じ話を口頭で聞いたことがあるかもしれない。なのに改めて本著で著者を知るのは、人が一人で書き綴るところに内省が生じるためだろうか。口頭よりも手紙のやりとりに近いのだと思う。堅苦しくなくくだけ過ぎもせず、感覚的には面識のない相手とするふみのやりとりのよう。それを往復書簡と呼ぶならばこのエッセイは片道書簡、特定の相手に向けたものではない。その分冷静で、気遣いも謙虚さも著者その人を浮き彫りにしている。独り相撲と呼べば語弊があるが、相手の出方に応じて型を変える必要がないことが中庸さが際立たせる。 個人的に推薦者は幸田文が大好きである。幸田文の「あや」もそう言えば、ふみ、手紙とも解釈できる名前だ。これこそ本当に「見知らぬ人との片道書簡」である。 幸田文のエッセイ、いや随筆と呼ぶべきか、時代が違うのに今なお瑞々しく近くて遠く佇まいが美しく、立ち止まりながらしか読めない。好きだから読めない。涙が落ちることも多々ある。エッセイで涙が出るのは、今のところ幸田文とよしざわるみの二人である。 よしざわるみを知らない人にこそ中庸な片道書簡を楽しんでいただけるはず。一頁に一話のボリュームなので、立ち止まりながらでも一日一話ずつでも、質量のプレッシャーに手が止まることなく心に爽やかな風を、しっとりした雨を取り込んでいただけると思う。 | ||||||||||
推薦者 | 正岡 紗季 | |||||||||
推薦ポイント | 表現・描写が好き |