尼崎文学だらけ
ブース 純文学3
第七の封印
タイトル 見神
著者 沙世子
価格 300円
カテゴリ 純文学
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紹介文
 中世ブラバンドに世俗と交わりながら福音の理想を生き、「ベギン」と呼ばれる敬虔な女たちの集落があった。
ブラバンドの南、静かな山村に隣接するシント・ヤンス修道院で書記を務めるベギン、マルグリッドは祈りの生活の中でかすかな違和感を覚えていた。幼いころから「聖女」と呼ばれ、神の言葉を理解した姉、ヘルトルートが若くしてこの世を去った。彼女が生前残したのは、「私は、神を見たい」と言う言葉。神はどこにいるのか、人はなぜ神の姿を求めるのか。答えの得られない問いにこころ乱されるなか、彼女は傷ついたキリストを描いた一枚の聖画を託される。あらゆる神秘を記録する修道士ヨハネとの出会いによって、彼女は聖画を「窓」とした幻視に導かれる。
実在する中世の祈念画家(ヘールトヘン・トート・シントヤンス)の人生と敬虔な女性たちの歴史を軸にしたキリスト教小説。

まぶしい光を浴びて、私は目を覚ました。聖堂では修道士たちの朝の祈りが行われているころだ。私は寝床から起き上がり、私が仕事と寝起きをともに行うこの部屋、「工房」を見渡した。
 部屋の壁際には十数種類の絵筆が保管箱に入れられ「、調合した絵具の器が規則正しく配置されていた。まずは、天の色を表す青から順に、左からひとつひとつ、色調の差が目で分かるように。
 光が差す場所を目で追う。ここは修道院の離れの宿舎に作られた私の工房。画家は私一人で、写本製作の指南を頼まれることもあったが、依頼された絵を完成させる場合は親方と弟子を一人でこなさなければならないのが常だった。
 部屋の外には回廊に続く中庭がある。花園と言うには控えめすぎるこの場所には、小さな赤い花が点々と花弁を開いていた。その花の色が、誰かの歩いた痕跡のようにも見えた。
 これは血の色か。主の流した血の涙のようだ。これはミモザの花。主が行かれた嘆きの道行の軌道をなぞっているようだ。
「ここはいつも鍵がかかっていないな」と気さくにドアを開けて訪ねてくるウィレンに、この話をしてみたことがある。「やはり画家と言うのは想像力が常人とはちがうようだ、ただ、花の種をいれた袋の底が破れていただけだろうよ」と笑っていた。
 今や、一人きりで絵の着想ねる工房と、この小さな園だけが私の世界だった。私のめぐらせる思考の源であり、胸の内に生命を呼び込む産土であった。
 灰色の修道服に着替え、庭へと出て見れば足元が朝露に濡れる。緑の葉についた雫に反射する光の輝きを瞼の裏に記憶する。背の高い草の葉の裏にある水脈にも目を凝らしてみた。地に蓄えらえた生命を吸い上げ固くなったつぼみは明日の日の出とともに花開くだろう。耳を近づけてみたら葉にいきわたり皺をぴんと伸ばす水が流れる音が聞こえてきそうだった。
 緑あふれる庭先では耳の聞こえない年老いた庭師の男が静かに土を耕す作業を行っていた。歯ほとんど抜け落ちて、話す代わりに彼は水気を失った梨のようにしわくちゃな顔の微笑みによって自分の意思を伝えていた。
 私はこの庭を覗き見るだけのよそ者に過ぎないが、老人はこのささやかで美しい庭だけを真実自分の世界として充足を得ていた。この老人こそ、エヴァに出会わず楽園を追われることなく一人生き続けたアダムなのではないか。原罪を知らぬものはもしかしたらこのようにただ笑うことを神から授けられているのかも知れない。