〈あらすじ〉 目を凝らし、耳を澄ます。手応えも、舌触りも、一つ一つ覚えておく。鼻の鋭い狼のように……。新撰組三番隊組長、斎藤一。局内でも屈指の剣の使い手である斎藤は、粛清や偵察の任務にも就く。右手の儀礼の剣で人を欺き、左手の戦闘の剣で人を殺す。淡々と任務をこなすかに見える斎藤の背後に実は、日本の行く末を握る幕臣、勝海舟の存在があった。幕末の京都で影響力を強める新撰組。だが、抱え込む火種は尽きない。伊東甲子太郎率いる一派がついに離脱したとき、斎藤は偵察のために彼らと行動を共にする。無論、斎藤は彼らを裏切ることになるのだが……。ストイックでミステリアスな人物像が魅力の斎藤一、その葛藤多き青春を描く短編歴史小説。 〈本 文〉 夜半過ぎである。黒々とした鴨川の水面を、斎藤一は見下ろしている。何を見ている、というわけでもない。音ばかりは涼しげに流れる川の、時折ちらりと反射する星影を、ただ視界にとらえながら、三条橋のたもとに佇んでいる。 夏の京都は、日が沈もうが月が出ようが、いつでも暑い。御天道様が張り切るせいで暑いわけじゃあねえんだと、四国は伊予の生まれの原田左之助が言っていた。伊予の御天道様はかんかんに熱い。京都はそうじゃねえ。四方を囲う山並みの底に溜まった暑気が、川の湿気と混じり合って、べたべたとまとわり付いてくるのさ。 そもそも京都は気が淀んでやがるんだ、と原田の言葉を受けて顔をしかめたのは、北辰一刀流の名手で鳴らす藤堂平助だった。昔っからの邪気や怨念が、鍋底みてえなこの地形に溜まった挙句、凝り固まってんだぜ。すっぱりとした物言いと振る舞いを好む江戸っ子の藤堂は、雅やかな風情の裏で権謀術数の渦巻く京都という土地を、端から好んでいなかった。 このじっとりとした蒸し暑さは、確かに淀んでいるようで、肌にまとわり付いてくる。ただ、斎藤には、気だの念だのといったものも淀んだり溜まったり、挙句に凝り固まったりするのか、わからない。五感でとらえられぬものを論じられるほど自分は賢くない、と思う。主張だとか論理だとか、頭の中で一つの何かを築き上げるのは難儀だ。斎藤が語ることのできるのは、この目で見てこの手で触れた確かなものだけだ。 だから、斎藤は目を凝らし、耳を澄ます。手応えも、舌触りも、一つ一つ覚えておく。己を鈍らせてはいけない。鼻の鋭い狼のように、信用できる事実のみを嗅ぎ分けて見出さねばならない。そんなふうに自らに課している。それが斎藤一という男だ。血の匂いがする。晩夏の湿った夜気からも、斎藤自身の体からも、殺戮と破壊の鉄っぽい匂いがする。
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