出店者名 ペーパーカンパニー
タイトル がくふノオトなる
著者 正岡紗季
価格 1000円
ジャンル 恋愛
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紹介文
請われて入社、社内恋愛で結婚、昇進、子供ができて妻は退社。人は幸せと呼ぶだろう。父親兼、夫兼、上司。どう演じてもぎくしゃくする。そこに部下まで倒れやがった。部下の弱さに付け込んだつもりはないが、魔が差した。上司ってこんなに弱くていいんだっけ。
家庭に居場所を見つけてからは会社で次々と問題が噴出する。魔が差しただけの部下に恋仲の男が出来ていた、そんなことにも腹が立つ。これが男の卑しい征服欲じゃなくて一体なんだというんだ。それでも自惚れたい。
家族とは、協働とは、関係に上下はあるのか。抜け出した者をぬかるむ者が描いた極大妄想小説。

 雨が身体を冷やす。一ツ橋へ急ぐ気力はない。駅とは逆方向へ呼ばれるように、アジアンカフェに入っていた。二階の席で熱いチャイを飲みながら、ぼんやり大通りを見下ろす。車の往来は途切れることなく、歩道を行き交う傘は早足だ。濡れない場所から見る雨の景色は遠い出来事のよう。
 寄りかかりたかった。甘えたかった。不健全でもいい、甘いものが欲しかった。チャイのボウルの底に砂糖とスパイスが沈んでいる。スプーンにすくって少し舐め、残りはゆらりとかき混ぜた。
 濡れる大通りが川に見えた。内側の車道は流れが速い。外側の歩道はゆるやかだ。流れが速ければ届くべきところへ早く届く。流れに乗れなければ端に追いやられる。残酷だが、弾き飛ばされても仕方ない。違うか。弾き飛ばされてしまったら仕方がない。弾き飛ばされないように交通整理をしても、時には渋滞する。事故も起きる。流れが速いほど、事故の被害は大きくなる。
 川に届けば、海に届けばいいというほど単純ではないのか。うたかた。泡は消えてしまう。かつ消えかつ結ぶ。先の泡と次の泡は違う。夢みたい。はらっとほどけちゃうの。ほどけるんだね。ほどけたね。空気を含み、水でできた淡いいれもの。泡は消える。消えた。流すんだ。流されてしまわないように、流すんだ。
 日が沈みかけていた。雨は小降りになってきている。今のうちに、戻るか。冷めかけのチャイを喉に流して席を立った。
 ビニール傘を雨が弾く。温かい色が雨粒に映り込む。見上げれば首都高速のあちら側に頭を出す東京タワー。いつも変わらずそこに在る。
 流れても元に戻れるように、そこにいてください。雨粒が音符なら青く塗らないでください。往来を邪魔しないよう、歩道の端をゆっくり歩いた。とぼとぼ歩いて見えただろうか。地下鉄の駅に潜ると蛍光灯の光が目に刺さる。人ごみに突っ込む気になれず、普段よりも二、三本遅れて乗り継いだ。
 好きにしてくれよ。おれにはどうにもできないんだよ。