出店者名 銅のケトル社
タイトル 青い幻燈
著者 並木 陽
価格 500円
ジャンル 大衆小説
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紹介文
「いくたびかの革命が起こり、王も貴族もいなくなり、若者たちの憧れであった赤い軍服の時代も終わった。あらゆる生まれの若者たちに、出世の道が開かれた。貧しい出から身を立てるには、なんと言っても学問だ。学生街たるラテン区に、たちまち若者が溢れかえる。
 しかし彼らはいつしか気づく。学位なんぞを修めたところでろくに就職の口もない。日々の糧を得る役には立たぬ。ならばつまらぬラテン語などより、この束の間の青春の悦びをこそ讃えたい。(中略)
 青いガス燈の明かりが灯る十九世紀の退廃の、そんな舞台はいかがだろう。季節は冬、世にある多くのためしに倣って、降誕祭から始めよう。」
(「前口上」より)

 十九世紀パリ、ラテン区。画家と詩人が同居するアパルトマンに現れた不思議な少女。そして永遠の孤独と引き替えに芸術家の魂の充足を約束しようという謎の紳士。一瞬に魂を燃やす、若者たちの青春。

 外の空気を吸うなり、画家は円柱型の広告塔に抱きつくようにもたれ、激しく咳き込んだ。口を押さえた指の間から血が零れ、融け残っていた雪の上に一滴、二滴したたった。ようやくのことで咳が収まると、オクルスは黒い目を開き
「おやまあ」
 と呟いて、自分の掌を見つめた。
「何が、おやまあだ」
 後ろからかけられた声にぎょっとして、画家は振り返った。呆然と声の主を見つめる。
 肩で息をさせながら、アヴィスがそこに立っているではないか。オクルスが落としてきた赤いスカーフを手に握りしめ、詩人は凄まじいまでの鋭さで、画家を睨みつけていた。視線で人が殺せるものなら、画家の命はとっくになかったに違いない。
 諦めたように表情をゆるめて、オクルスは深い溜め息をついた。
「女の子をほったらかして来るなんて、紳士の風上にも置けないね」
「なんで黙ってた」
 声を震わせてアヴィスは尋ねた。
 オクルスは困ったように、ぼさぼさの黒い頭を掻いた。詩人はスカーフを放り出して、広告塔に背を預けている画家の前に歩み寄り、胸ぐらを掴んで拳を振り上げた。画家は目を閉じ、歯を食いしばった。しかし、いつまでたっても、詩人は殴りかかってこない。
 オクルスは目を開けた。アヴィスは両手で画家の胸ぐらを掴んだまま、顔を伏せていた。そのまま詩人は膝をつく。
「なんで」
 と言ったきり、そのあとは声にならなかった。画家の身体に突っ伏して、詩人は泣いていた。
「ごめん」
 遠くを見たまま、オクルスは言った。
 気づけば小玉のように固い雪の粒が、いくつもいくつも降っていた。いったいいつの間に降り始めたのだろうか? それは画家の肩の上にも、詩人の金色の髪の上にも、道に投げ出された赤いスカーフの上にも、みるみるうちに降り積もった。
 パサージュの入口でギンガムのスカートをひるがえしながら、グリゼットは一連の光景を見つめている。寒風に指がかじかんで、少女は息を指先に吹きかけた。
 雪にうっすらと覆われた四段の階段を見下ろして、グリゼットは瞑目した。さっきふたりの若者に同時に手を取られて笑い転げた場所と、そこは同じ場所であるはずなのだ。しかし、いくらも時がたったわけではないのに、過去とはなんと遠い世界なのだろう!
(「三、ラテルナ・マギカ」より)


永遠と瞬間
 舞台は19世紀のパリ。
 「永遠の詩的霊感」を求める詩人と、
 「今この瞬間」を愛する画家のもとに、
 愛らしい少女が現れる。

 冒頭(前口上)の文章が音楽のようにリズムが良くて、ああ、この伴奏は何だろう。
 ピアノのように打つ音じゃない。
 アコーディオンのような空気が鳴らす音……

 そう考えながらページをめくると、手回し式オルガンが降誕祭の祝歌を奏でる場面に。
 ああ、オルガンだったのか!
 かすかに哀愁を含んだ音色に誘われて、気付けば素敵な物語世界に入り込んでいた。

 作者の並木陽さんは「物語」というものを大きくとらえている印象がある。
 現代の物語(小説・漫画・映画など)の大半は、ストーリーの起伏とリアリティを重視して作られている。
 けれども昔話や伝説には謎が投げ出されるだけのものも多くあるし、
 演劇では舞台を華やかにするためにリアリティを犠牲にすることも少なくない。

 そういう古今東西の無数の物語の中から、自分の表現したいものに最も合った形を選んでいるのではないか。

 この「青い幻燈」にはお芝居の雰囲気がある。
 登場人物たちの行動やセリフは、現実よりも少しキザだ。
 私はキザ普及推進委員会委員長(自称)なので、読みながらニコニコしてしまう。
 ゲーテの臨終の言葉をさりげなく冗談のようにつぶやいたりするのが、いかにも19世紀の学生街という感じがする。

 自分の知識や能力に限りがあることに苦しむ詩人。
 自分の人生や与えられた世界に満足している画家。
 どちらの気持ちも痛いほど分かる。

 この物語は不思議な終わり方をする。
 結末が幻なのか?
 それまでの日々の方が幻だったのか?
 失われていく我々の生は全て幻のようなものなのか?

 そんなつまらない質問をしようとすれば、少女はあなたの唇に人差し指を押し当てるだろう。
 唇にはラムの風味が残り、少女の面影とともにその香りは永遠に消えない。
推薦者柳屋文芸堂

始まりも終わりも綿々と日々に
じんわりと、静かなファンタジー。
現実と幻想の狭間の、いざないと決意。軽薄そうに見えて、でもそこにあるのは確かに繋がり。
いつか消えてしまうとしても、いま自らが手を離す理由にはならない。素敵でした。

語りも、コミカルさの中に悲哀があってよかったです。
推薦者まるた曜子

物語から解放される
 「グリゼット、君は結末のない物語に価値がないと思うかね」 (中略)「それでも、途中の部分がそれはそれは面白い。だから儂は、物語の結末には一般に言われているほどの価値はないのではないかと考えている。結末などなくとも、物語は途中の部分にこそ意味があるのだ」

 並木陽、と言えばまっさきに『斜陽の国のルスダン』や『ノーサンブリア物語』などの歴史上の女傑や群雄割拠の時代の動乱をえがく人、という印象が思い浮かぶだろう。
 だが、この『青い幻燈』は、そういった歴史の物語ではない。
 時は十九世紀パリ、ラテン区。登場人物は、画家、詩人、先生、名前のないお針子少女、それから孤独という名の男。十九世紀のパリの薄暗い華々しさと、(今は売れない)画家や詩人という登場人物。
 読み手は画家か詩人のどちらかが名声を得たり、お針子娘と結ばれたり、という「物語」を無邪気に期待する。だが、詩人も画家も、自費出版した詩集を売り込もうと粉骨砕身したり、自らの血を絵具にしたような絵でコンクールに挑んだり、そんなことはしない。彼らはただおしゃべりをしたり、街を歩いたり。何でもない日常が描かれる。
 『青い幻燈』の登場人物はルスダンやアクハのように、物語の主人公として語られるべき歴史を持たぬ人々だ。彼らは、「物語にはなれない人たち」と言い切ってしまってもいい。
 その、物語にはなれない人たちを描き出す筆致の真摯さと、編纂能力は、さながら幻燈のように「物語」を描き出す。彼らは物語に「なれない」のではなく、劇的な語りだしも結末も必要としない、「めでたしめでたし」からは解放された人たちなのだということを、雄弁に語る。
 なにものかになること、物語の主人公になること、そういった義務や責任から、彼らは解放されている。

 作中で、もう一つ印象的な一文がある。
「グリゼットこそは、貧しくともこの世でもっとも自由な女だから」
 『青い幻燈』この物語は、物語を語ること・読むことから、登場人物が、そして畢竟、読者が、始点と終点を必要とする物語の義務と責任から自由になるための書物だと、私は思った。
推薦者孤伏澤つたゐ