「つまり……右の踵で右のふくらはぎには触れられないし、自分の目で自分の背中を見ることはできないってことっすね?」 その言葉を聞いて、菜穂は吹き出しそうになった。スカート越しに太腿をつまんで笑いをこらえ、平静を装う。 「鏡越しだったら、背を見ることもできると思います」 「そっすかねえ。それって、結局俺自身は鏡を見ているだけであって、背中を見ているわけじゃあないと思うんすよ。鏡の中の俺よりも、ヨソのヤツが見た俺の背中のほうがずっと本物なんじゃねえかって」 「……難しいこと考えるんですね」 「学友からは経営学部の異端児と称されてますから」 則夫はいい笑顔をした。坊主頭にオランウータン顔であるが、笑顔はまるで少年みたいに瑞々しく感じた。しかしその笑顔の隅っこに、哀しみのようなものが見て取れた。菜穂は、則夫が幼いころからずっと白い翼を背負わされて生きてきたことを悟った。 「丸山さんは、ヨソの人が見た自分の背中を本物だって思うんですか?」 「そっちのほうが、ずっと信じられますから」 「それじゃあ、ちょっと背中向けてください」 則夫はあからさまに動揺し、困惑した表情を見せた。 「でも今、混んでますし」 「それでも、今見たいんです」 それは菜穂自身のためでもあった。就職活動の現状を打破できるよう、翼の力にあやかりたいと思った。 則夫は満員列車を窮屈そうに半回転した。菜穂の目前には、白い大きな翼があった。毛並は揃っていて、つやもある。則夫には不相応なモノのように見えた。しかしこれは紛れもなく則夫と共に人生を歩んできた翼なのであった。 菜穂は翼に触れた。生温かなやわらかさが指先を撫でた。その奥に弾みのある鈍さがある。初めての感覚だった。この鈍さを知る人は、世界中にどれくらいいるのだろう。そう思うといてもたってもいられなくなって、菜穂は白い翼にそっと頬を当てた。ぬくもりが伝わった。 翼は何も語らず、ただ列車の揺れる音だけがした。 「貴方の背中は、貴方にしかない背中ですよ」 菜穂の言葉に、則夫は翼の隙間から顔を覗かせた。彼は笑っていた。 「そっか。菜穂さんが言うんなら、きっと俺の背中は、俺だけの背中なんすね」
「クランクアップ」より
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