1.最終章への序曲
女はじっと動かない。 最愛の男に毒の汁が滴らぬよう、ずっと器を彼の頭上に掲げている。 「何故あの方を殺したのですか?」 珍しく、女が彼に問いかけてきた。 男はにやりと笑い、俯いた。 「何故全てに愛されるはずのあの方を殺したのですか?」 これは、珍しいことだった。 彼に対して全て従順な妻である彼女が再度問いかけてきたのだ。彼はくっと口角を上げると、彼の頭上にある彼女の顔を見上げた。 「だから、さ。それに、僕が殺したんじゃない」 「それでも、最後は老婆に化けて、甦ることを止めたではありませんか」 「おやおや、奇なることを言う。僕が老婆に化けた証拠があるのかい?」 「ヘルはあなたの娘ではありませんか」 彼女の口から、娘の名が出るとは思わなかったので、彼は一瞬固まってしまった。その隙に、彼女は毒で一杯になった器を彼の頭上からどけ、捨てる。 「――――!!!」 彼女にとって他意はない。 何故なら、彼女は彼に対して全て従順なる妻だから。それでも、身体に走る激痛は収まるはずはない。彼は苦痛に顔を歪め、彼女の顔を見上げた。空には、うっすらと月が出始めている。 「何故――」
アングルボダとの間に子を成したのですか?
彼女と月が重なった。 「……何故バルドルを殺したか、教えてやろうか」 彼女の無表情な瞳に、ほんの少しだけ光が走った。 「僕は、邪神だ」 毒の激痛が、ロキを貫く。 「邪神は神々が苦しみと嫉妬に塗れるのを望んだのさ」 「そのせいで、私達の娘は狼にされ、息子はあなたを縛る綱にされたというのに……?」 「僕は、全てが壊れる様が見たいんだよ。しょせん、僕は巨人族なんだ」 「ファウルバティの血が、それを望んだの……?」 「いいや、僕は巨人族でありながら神族。それ故邪神ロキなんだよ」 ロキの美しい顔が、邪悪に歪む。 「バルドルは光の神、僕とは決して相容れぬ存在……彼の死は、神々の憎しみを見事引き起こしたのさ!」 それを聞くと、彼女は器を再び彼の頭上に戻し、毒を受け止めるのだった。 「……あなたは、全てを求めすぎる……」 すると、彼はニヤリと笑うのだった。 「だから、僕には君がお似合いなのさ。そうだろう? 最愛の妻、シギュンよ」 彼女はずっと彼の傍にいる。 ラグナロク、その時までは――――
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