出店者名 オカワダアキナ
タイトル 飛ぶ蟹
著者 オカワダアキナ
価格 600円
ジャンル 大衆小説
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紹介文
凡夫の営み、脱力したメランコリーをまとめた短編集、全9編。

サワガニにかんしては騙された。「甲羅の中にすきとおった羽がしまわれていて、ぱかっと開いて飛ぶんだよ」父がおれについたささやかな嘘のこと。ありえないとは思いつつ、なぜか、そうかもしれないなあと納得もした……。

日常を半歩くらいはみだして、こころやからだが通いあった(あるいはちぎれた)時間のこと。一編が4000字程度、それぞれ独立した物語です。サゲでとぼけるようなお話が多いのは、何かを言い切るのがこわいからかもしれない。

 サワガニにかんしては騙された。海から一◯分ほど歩いた山のうえに父の別荘があり、海水浴のあとは水着のまま坂をのぼった。小二の夏だったと思う。父と手をつないで歩いていて、側溝に蟹がうずくまっているのを見つけた。青白い小さな蟹だ。すでに還暦を過ぎていた父の手は、血管がぼこぼこ浮いていた。透ける管は青く、押すとやわらかかった。
「知ってるか。蟹って飛ぶんだよ」
「嘘だ」
 即座に否定したおれの手をぐりぐりと揉んで、本当だよと父は笑った。
「飛べなきゃ海からここまで上がってこられない。こんなちびが坂をのぼれると思うか?」
 甲羅の中に羽があるのだと言った。カブトムシと同じだと。すきとおった羽がしまわれていてぱかっと開くんだよと、父はまじめに説明してみせた。
「そんなのきいたことない」
「そりゃそうだ、世の中の仕組みってそういうものだよ。誰かがひとつひとつ丁寧にお前に教えてくれるわけじゃない。いろんなひとからいろんなことを聞きかじったり、盗み聞きしたりしなけりゃならない」
 飛ぶのは夜だけなんだ、明るい時間は敵が多いから。海で過ごすのは暗い間で、夜明け前に山へ帰る。昼間は日陰でじっとして過ごす。父はそう言った。
 ありえないとは思いつつ、なぜか、そうかもしれないなあと納得もした。おれは海も山もない町に住んでいて、蟹のことなんて知らなかったから。
「ふつうの蟹は赤いだろ、あれは飛ばない。飛ぶ蟹は、青いんだよ」
 しわの目立つ父の指につつかれ、蟹はごそごそ動いた。片側のはさみがちょっと大きい。側溝は湿って苔が這い、木漏れ日に青い背がひかった。
 もちろん蟹に羽がないことも、あれがサワガニだったろうことも、今では知っている。夏休みにしか会えない父はとんでもないホラ吹きで、しかしおれとあれこれしゃべりたかったのだと、親子らしい会話をしてみたかったのだと、今ならなんとなくわかる。聞きかじりと盗み聞きの蓄積により「隠し子」は察しのいい十九歳になった。父には別な家族があり、母さんとおれはずっとふたりで暮らしている。


飛べなくても、不安じゃない
「水ギョーザとの交接」に繋がる「講和条約と踊らない叔父さん」
「ぎょくおん」のプロトタイプ、「飴と海鳴り」を含む全九編。

 オカワダさんの作品世界を通じて感じる「心」と「身体」の距離のふわふわとした曖昧さ、「家族」の捉えた方、目の前を通り過ぎていくいくつもの景色を捉える言葉のセンスやユーモアが匂い立つような様々な気配と共に浮かび上がる本作は「小品集」の副題通り、ピアノソナタのようにポロポロと儚くおだやかに心に幾つもの音色を落としていく。

 心と身体はいつだって引きちぎれてばらばらで、目の前に居る人どころか、自分自身にすら触れ方がよくわからない。
 あやふやに揺らぐ中、それでも微かに気持ちが重なり合ったその瞬間はあったのかもしれない。
 無力な子どもだった自分を引きずったまま、私たちはそれでもいつの間にか大人になっている。
 傷は癒えなくとも、いつしかかさぶたになっていることに知らず知らずのうちに気づく。
 あなたの心にわたしは触れられはしないけれど、痛みは少しずつゆっくり癒えていけばいいと、「祈る」ことなら出来る。

 取り戻せないまますれ違っていくいくつもの感傷にぐらり、とちいさな引っ掻き傷が疼く。
 それでもそれを見つめるまなざしはやさしさに満ち溢れている。それを携えたままでも歩いて行けるのだと、ささやかな祈りをささげてくれるように。
推薦者高梨來

とりあえず「ジュラ紀」を読んで欲しい
 おかさんの作品に初めて触れた「講和条約と踊らない叔父さん」、ずっと読みたいと思っていた「飴と海鳴り」などが入っていてわくわくした。
 一番好きなのは「ジュラ紀」 小六の日常にありそうな、日常とは少しズレたことを積み重ねることにより、一生忘れない美しい記憶が描き出されているようで、じんわり心打たれた。
 「スイッチ・オフと苺ジャム」の次が「ジュラ紀」という並べ方も良い。「ジュラ紀」の主人公が「スイッチ・オフと苺ジャム」の登場人物の回復を祈っているようにも読めた。
 短い話なので、とりあえず「ジュラ紀」を立ち読みしてみて欲しい。おかさんの作品が持つユーモアや、人間の本質をとらえる力、物語る技術の確かさを感じ取れると思う。
推薦者柳屋文芸堂