爪を切るたびに思い出す。ぱちん。時を刻む、切り刻む音。「ぱちん」 あの時、気付かなくて茶化してしまったけれど。今ならわかるよ、爪のこと。サッカーしていたから。今もフットサルしているから。爪のことでデリケートになるってことですよね? ピアノを弾く指は、爪にそこまで気を遣わないでいられました。指と爪の形や、弾く曲にもよるけれど。 でもね、スニーカーなら私だって、ワイズにもこだわって選ぶんですよ。だいたいD、デザインによっては、B。 雨の日の、まぶしい赤色のスニーカーを思い出していた。 今ならわかるよ。あの時には、わからなかった。バカだなあ。苦々しく思い出す。ビターチョコレートが苦手なのは、こんな味覚なのだろうか。 爪を切るたびに思い出す。あまい粘膜。ほろ苦い記憶。あの時に一緒に食べたショートケーキと、実はチョコレートは苦手なんだけどって、ことも。でも、バレンタインにもらったチョコレートの中でいちばんおいしかったよって、言ってくれたことも。フルーツ系のホワイトチョコレートだもんね。真偽はともかく、気持ちなのです、私の気持ち。言葉をもらった私の気持ちが、今でもふわっと、あたたかい湯気みたいに包んでくれる。 私はコーヒーの湯気を吹いた。憂鬱を吹き飛ばしてしまえ。それまでとは違う憂鬱。もしかしたら、これが最後。 今なら、わかるよ。リップサービス、一枚上手でしたね。うわべではないリップサービス。悩みを、迷いを、苦しみを、悲しみを、絶望を、自殺願望を、消えてしまいたい無力感も、全部吹き飛ばしてしまう。 ところで、リップサービスって、何ですか。誰も私に教えてくれない。 なにごとも、うつろう。やさしさも嘘になる。やさしい嘘つきはハート泥棒のはじまりだって、だから言ったじゃないですか。 熱いコーヒーカップのふちに、やさしく唇をあててみる。まだ猫舌には熱すぎる。ふうーっと、もう一度湯気をふいた。コーヒーが冷めても、このあたたかい気持ちはわすれないよ。わすれないよ。面影が湯気と一緒に消えたとしても。 悲しみが悲しみを引き寄せたのかな。その時だけでも、私に向き合ってくれたんだって思ってた。向き合っていたとしても、同じ方向を見ていたわけでは、ありませんでしたね。 今は、ふたり、遠く、これで、よかった、はず。 ぬるくなったコーヒーは、大好きなグァテマラ。いつもよりも、苦い味がした。
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