出店者名 ペーパーカンパニー
タイトル notes sans musique オトノない楽譜
著者 正岡紗季
価格 500円
ジャンル 恋愛
ツイートする
紹介文
『がくふノオトなる』『ほどけないで』に続くノオト三部作の三作目。一卵性母娘とも言われるような母親の呪縛から逃れられない未分化なアラサー「少女」の繭子が主人公です。妻子ある上司の稲塚との間の出来事を回想する恋愛小説もどきで、時系列をいったりきたりしながら絶望により救われる=諦めて手放すものがたり。

 爪を切るたびに思い出す。ぱちん。時を刻む、切り刻む音。「ぱちん」
 あの時、気付かなくて茶化してしまったけれど。今ならわかるよ、爪のこと。サッカーしていたから。今もフットサルしているから。爪のことでデリケートになるってことですよね? ピアノを弾く指は、爪にそこまで気を遣わないでいられました。指と爪の形や、弾く曲にもよるけれど。
 でもね、スニーカーなら私だって、ワイズにもこだわって選ぶんですよ。だいたいD、デザインによっては、B。
 雨の日の、まぶしい赤色のスニーカーを思い出していた。
 今ならわかるよ。あの時には、わからなかった。バカだなあ。苦々しく思い出す。ビターチョコレートが苦手なのは、こんな味覚なのだろうか。
 爪を切るたびに思い出す。あまい粘膜。ほろ苦い記憶。あの時に一緒に食べたショートケーキと、実はチョコレートは苦手なんだけどって、ことも。でも、バレンタインにもらったチョコレートの中でいちばんおいしかったよって、言ってくれたことも。フルーツ系のホワイトチョコレートだもんね。真偽はともかく、気持ちなのです、私の気持ち。言葉をもらった私の気持ちが、今でもふわっと、あたたかい湯気みたいに包んでくれる。
 私はコーヒーの湯気を吹いた。憂鬱を吹き飛ばしてしまえ。それまでとは違う憂鬱。もしかしたら、これが最後。
 今なら、わかるよ。リップサービス、一枚上手でしたね。うわべではないリップサービス。悩みを、迷いを、苦しみを、悲しみを、絶望を、自殺願望を、消えてしまいたい無力感も、全部吹き飛ばしてしまう。
 ところで、リップサービスって、何ですか。誰も私に教えてくれない。
 なにごとも、うつろう。やさしさも嘘になる。やさしい嘘つきはハート泥棒のはじまりだって、だから言ったじゃないですか。
 熱いコーヒーカップのふちに、やさしく唇をあててみる。まだ猫舌には熱すぎる。ふうーっと、もう一度湯気をふいた。コーヒーが冷めても、このあたたかい気持ちはわすれないよ。わすれないよ。面影が湯気と一緒に消えたとしても。
 悲しみが悲しみを引き寄せたのかな。その時だけでも、私に向き合ってくれたんだって思ってた。向き合っていたとしても、同じ方向を見ていたわけでは、ありませんでしたね。
 今は、ふたり、遠く、これで、よかった、はず。
 ぬるくなったコーヒーは、大好きなグァテマラ。いつもよりも、苦い味がした。