アクアマリン編
「Heavenly Hell」冒頭より
僕は何にでもなれるはずだった。
君すら救えるはずだった。
総てを手に入れていたはずだった。
尾鰭が泡に消え、鱗が嘘のように剥がれ落ち、それでも真珠のような肌と数多の海藻よりも柔らかな黒髪は揺蕩う水に眩しく映って薄く消えていくその時も、僕はどこか確信めいた自信があった。
世界はどうにでもなると、ずっと思っていた。
思っていた。
ただ、そう、思っていた。
身体が重い。
随分と長い間、眠ってしまっていたようだ。質素な寝床は少し広く思えた。簡素な枕に横たわっている腕は、遠すぎて朧げになった記憶よりも細い。
「気が、つかれましたか」
山間の都市に佇む教会の尖塔、その天辺にある鐘のような声だと思った。黒く染められた女の服が、その想像を掻き立てたのかもしれない。
声を出そうとして、出し方が分からないことに気がついた。そもそも、僕は一体何者だったのだろう。以前の出来事が全く思い出せなかった。
「長いこと、眠っておられましたから」
女は振り返って僕を見つめる。
どきり、と心臓が高鳴った。
理由はない。
思い出せない。
けれど、僕は確かに憶えている。
女は若いように見えた。透き通るような輝く白い肌は修道服の隙間からちらりと覗いたし、もったりとした一重まぶたは優しく蠱惑的な視線を投げかけている。薄い唇は慎ましやかに結ばれ、口元の黒子に視線が吸い寄せられそうだった。豊満とはほど遠い、痩せてすらりとした身体はその境遇を指し示すのに十分だった。けれども僕はそこに官能を読みとった。
きっと飢えているだけなのだ。かつての僕は、女色に溺れていたのだろう。
「近くの海岸に、打ち上げられていたのです」
彼女は滔々と語り始めた。
僕は海岸に打ち上げられていたところを助け出され、ここでかなり長い間眠っていたようだ。その間どのように介抱されていたのかは訊かなかったけれど、相当な根気を必要としただろう。僕は感謝した。けれど声が出ないので深く頷くことしかできない。寝床から出ようにも、足すら思うように動かない。