アラベスク arabesque

 窓際の席で、青空を眺めるようにしてウォークマンのイヤフォンの位置を直している彼女を見つけたのは、一学期の中間考査の最終日だった。
 否、それまでも彼女を知らなかったわけではない。高校二年生になって最初の日、順番に立ち上がって自己紹介をした日に、彼女も控えめな声で名乗ったことを憶えている。四十数人のクラスメートたちの中で彼女を特別に憶えているわけではないが、内気そうな印象はまだ僕の脳裏に残っていた。
 幸野由比。
 ゆい、という名前も僕の印象に残った原因かも知れない。彼女はすとん切り落とすように自分の名前を発音した。
「こうのゆい。よろしくお願いします」
 確かそれだけだったと思う。それから一度も彼女と話したことはない。
 左足首を軽く捻挫したせいで部活を早退けして教室に戻ったとき、偶然窓際の自分の席に座っている彼女を見つけた。教室には他に誰もいなかった。中間考査も終わった午後なのだから、大方の連中が部活か街へ遊びにいっているか、それとも昨夜徹夜で一夜漬けをした奴は帰ってぐっすり眠っているかだ。明後日から研修旅行。東北は涼しいだろうか。今日はとても暑い。
 僕が教室に入ったとき、幸野由比は気付いてちらりとこちらを見た。少し気まずかった。会釈をしてみる。彼女も会釈を返してきた。気まずそうな顔もせず、無表情で。その背後に大きな窓越しの青空が広がっている。
 僕らの教室は四階にあった。
 廊下の突き当たりから屋上に出られる。いつもは騒がしい廊下が、今日はもう誰もいない。静かだった。
 僕に会釈を返した彼女はまた青空の方へと目を向けた。僕もなんとなく窓に近付いた。窓から下を見るとテニスコートがあって、ばらばらと数人が打ち合いをしている。しかしその掛け声は聞こえなかった。
「なんか、静かじゃない?」
 僕は独り言のように云った。彼女が応えなくてもいいようなトーンで。しかし次の瞬間ゆるやかな声が返ってきた。
「空が、吸い込むんだと思う」
 空が吸い込む?
 僕は訊き返した。
「空?」
 彼女はウォークマンのイヤフォンを片方だけ外した。
「青空は、声を吸い込むんだと思う」
「……ふうん……そうかもな」
 彼女の声はゆるゆるとしてやわらかかった。
「何、聴いてるの、」
 僕はイヤフォンを指差した。
「ドビュッシー」
 ドビュッシー。
 ヒットチャートに載るような曲しか持っていない僕はまた少し戸惑った。ドビュッシー。亜麻色の髪の乙女、という曲があったっけ、と考えてみる。幸野由比はまだイヤフォンの片側を外したままで、斜めに僕を見ている。机の上には何も乗っていない。彼女は少し首を傾げた。
「今日は、部活なの?」
「うん。でも早退したんだ。捻挫してさ」
「浅野くん、何部なの?」
「剣道」
「ああ、そうだったね」
 由比は頷いた。
「ドビュッシーの、なに?」
 僕は訊いた。
「アラベスク」
 言葉をすとんと切り落とすように云うのは彼女の癖らしかった。イヤフォンの片側を耳に入れようとしている彼女に重ねて訊く。
「アラベスクって、どういう意味なの?」
 彼女は初めて僕に興味を持ったように向き直った。
「調べたら」
「知らないんだ」
 僕は少しわらってみた。
「知ってるわよ」
 彼女は真面目な面持ちで云い返してきた。
「この言葉、すきだもん」
「そっか……」
 僕は黙った。すきだもん、の響きはすこし子どもじみていて意外だった。一匹狼少女はもっと大人びているのかと思っていた。
「どんな言葉がすき?」
 彼女が突然云った。
「え?」
「すきな言葉ってある? 座右の銘みたいなんじゃなくて、単語で」
「面、とかな」
 僕は冗談を云ってみた。部活で竹刀を構えながら、面! と声を出す瞬間は確かに好きだ。
「へえ」
 幸野由比も微笑んだ。否、微笑んで、くれた。
「幸野は何が好きなの」
「わたし?」
 彼女は立ち上がって教室の後ろの黒板まで歩いていった。制服の胸ポケットにMDウォークマンが入っていいるらしく、そこから薄いブルーの線が彼女の右耳まで伸びている。左耳用の方は下に垂れてぶらぶらしていた。幸野由比は肩の下辺りまである髪を耳に掛けて、黒い三角形の髪飾りで留めている。
「はーもにか」
 彼女が白墨で黒板に、ハーモニカ、と縦書きに書いた。
「他には?」
 僕は訊いてみた。少し面白かった。クラスで誰ともつるんでいない彼女に、少し近付けるかも知れないと思った。
「かざみどり」
 風見鶏、と、ハーモニカの隣に文字が並んだ。
「もっと書きなよ」
 僕が云うと彼女は少しずつ黒板に白い四角い文字を満たしていった。

 銀河系。
 フラスコ。
 チューリップ。
 積分方程式。
 金魚。
 グスコーブドリ。

「グスコーブドリ?」
「知らないの」
 彼女は手を止めた。
「何それ?」
「宮沢賢治」
 僕は銀河鉄道の夜しか知らない。
「本、すきなの?」
「……」
「研修旅行、宮沢賢治も行くな」
 僕は云ってから、しまった、と思った。それと同時に彼女の手から白墨がカシン、と落ちて砕けた。
 しまった。


 研修旅行では東北地方に行く予定で、その中には宮沢賢治記念館も含まれている。僕はそのことを云ってなんとか会話に関連付けようとしたのだった。
 それとは別に。
 研修旅行という言葉は彼女に投げかけるのは禁忌なのかも知れなかった。


 研修旅行の班分けは、自由だった。そして、僕らの担任はクラス委員の河北という女子を職員室に呼んで、彼女の班に幸野由比を入れてやってくれないか、と云った。幸野由比は何処の班にも属していなかった。
 河北は悪くない奴だし、活発でクラスをよくまとめる。でも彼女の周りに居る女子たちは化粧の濃い、学校から一歩出ると鞄の中のベルトでスカートを短くするようなタイプばかりで、勿論河北はその子たちと班を組んでいた。幸野が馴染める居場所ではなかった。
 誰もはっきりと厭がったわけではない。
 でもクラス中に、幸野由比が班分けで誰の班にも入れなかった、ということは広まった。
友だちのいない奴、というふうに。
 そのあいだ幸野由比は平然としていた。授業中は机の下で文庫本を読み、休み時間はウォークマンを聴きながら顔を伏せている。教室移動は他の生徒の様に友だちを待たず、独りでさっさと動く。それが彼女だった。昼休みは……独りで食事をしているのだろうか。見覚えがない。


 彼女は落としたチョークに目を遣り、それから振り返った。僕は思い切って口を開いた。
「班行動なんて、たるいよな」
 彼女は無言のままだった。やばい、泣かせたらどうしよう。僕が焦るのと同時に、少し白くなったかおで彼女は云った。
「そんなの、私には、関係ないから」
 そして黒板に書いた言葉たちを黒板消しで拭き取り、机に戻ってしまった。ウォークマンを手に取る。
「け、研修旅行なんて、たるいよな」
 僕は慌てて云った。
「来る?」
「いくよ」
 答えの響きは固かった。
「そっか……」
 僕はしどろもどろになりながら云った。
「じゃあ、帰る、な」
「ばいばい」
 幸野由比は振り向かずに云った。

   帰宅してから僕は辞書を引いた。
 アラベスク【arabesque】
 1、アラビア人の創意に始まる、イスラム美術の装飾模様。円に内接・外接する多角形を基礎とする幾何学的文様と植物の葉・花・蔓などを流麗な唐草模様にしたものとがある。イスラム建築の装飾に広く用いられる。イスラム文様。アラビア模様。
 2、アラビア模様のように華麗に装飾した器楽曲。
 3、クラシックバレイの基本ポーズの一。
 ふうん、と思いながら足首の捻挫の包帯を取る。研修旅行までには大体治りそうな程度の捻挫だった。幸野由比。幸野由比。



 研修旅行に、幸野由比は来なかった。


  「そんなの、私には、関係ないから」
「来る?」
「いくよ」


 あの言葉は彼女の精一杯の強がりだったのだろうか。そして研修旅行への不参加は彼女の弱さを露呈させたのだろうか。
 まだ十六歳なんだ。一週間もの旅行のあいだ、身の置き所の無い場所で、あの硬い態度を取り続ける自信が無くても、そっちの方が普通なんだ。彼女が弱いわけじゃない。
 残酷だよ、と誰かに抗議したい気持ちだった。誰にとは判らなかったのだけれど。
 僕は宮沢賢治記念館で、グスコーブドリの意味を知った。それから幸野由比のために、「宮沢賢治 選抄」という薄い本を買った。
 誰も、彼女の不参加を残念がったり寂しがったりしなかった。皆明るくはしゃぎ、時に不平をこぼし、夜は教師の見回りに気を付けながら遅くまでコンヴィニで買った酒を飲みながら喋り、眠い朝は無理矢理起きて目をこする。そういう一週間が過ぎていった。東北地方は涼しかった。一日だけ雨が降った。“思いでアルバム”はありきたりなまでに順調に頁を増やした。彼女抜きで。

 研修旅行が終わり、季節は蒸し暑い梅雨になった。「宮沢賢治 選抄」を幸野由比に渡そうとして、なかなか渡せずにいた。彼女は何も声を掛けてこなかったし、廊下ですれ違ってもいつも視線を斜めにずらす。よりにもよって“研修旅行のまとめ”という枠がホームルームで取られ、班ごとに集まって感想を書く時間があった。
「そう云えばゆいちゃん、来なかったねー」
 河北のよく通る声が、隣の班のテーブルから聞こえてきた。
僕はちらりと盗み見た。幸野由比は河北に小さく頷いていた。
「サボリー?」
 河北の冗談交じりの声が聞こえた。
 残酷だ。
 残酷だよ。
 世の中には不治の病みたいな苦しみもある。でもそれとは別に、彼女みたいにこころを小さく引っ掻かれる傷もあるんだ。それは積もり積もってきっと取り返しのつかないことになるんだ。


 そんなことからまた数週間が経ち。
 幸野由比が泣いた。
 季節は六月の末になっていて、僕はまだあの本を渡せずにいた。
 新しく買った運動靴のせいで靴擦れが出来た僕は、保健室に絆創膏を貰いにいっていた。体育の時間の次の休み時間のことだった。保健室に幸野由比がいた。
「ちょっと腫れてるから、骨折じゃないかどうか、レントゲン撮って貰った方がいいかも知れないわねえ」
 養護教諭が彼女にそう云いながら左手に包帯を巻き付けていた。突き指らしかった。体育の授業はヴァレーボールだったのだ。
 包帯を指に巻き、貰った氷を片手に握りしめながら、彼女は下を向いて保健室の長椅子に座っていた。奥の棚から絆創膏を取り出そうとして、彼女の肩が小さく震えているのに気付いた。
「幸野、突き指? 大丈夫?」
 僕は久し振りに彼女に声を掛けた。返ってきたのは、く、ひく、というしゃくり上げる声だった。僕はびっくりして彼女を覗き込んだ。
「幸野?」
 それが切っ掛けになったように、幸野は本格的に泣き出した。声は出さず、しゃくり上げながらくっくと泣いた。
「すぐ治るって。左手だろ? 大丈夫だよ」
 幸野がしゃくり上げる合間に何か云った。
「え? なんて? 泣くなよー、」
 っていうか、なんでそんなことで泣いてるんだよ。もっとつらいことだって、いっぱいあったんじゃないのかい。
 彼女が顔を上げた。瞳に涙があふれている。

 ピアノ、ピアノが……。

 彼女は涙のあいだにそう云った。
 ピアノが弾けない。
 それが彼女を泣かせた原因だった。
 ドビュッシー、か。僕は心のなかで呟き、なぐさめる言葉を思いつかずに横にぼうっと立っていた。
 やがてチャイムが鳴り、僕は教室に戻った。その日彼女は早退した。レントゲンを撮りにいったのだろう。

 一週間ほど経った。
 三時間目の終わった後、珍しく彼女が僕の席まで歩いてきた。
「浅野くん、」
 はにかむように幸野由比は左手を突き出して見せた。
「結局骨は折れてなかったの。このあいだ、ごめんね」
 彼女の手は指が長かった。
「お、よかったな」
 僕はまだ鞄の脇ポケットに「宮沢賢治 選抄」を入れている。チャンスは今日しか無い。
「幸野ってさ、昼、学食?」
「お昼?」
 彼女は訊き返した。
「レッスン室三番にいる」
 四時間目の歴史は長く感じられた。昼休みになった途端に、朝コンヴィニで買ったパンを飲み込むようにして食べ、
「浅野、今日食堂行かないのかよ」
 という言葉に軽く手を振り、僕はレッスン室を目指した。
 繊細なメロディがレッスン室三号室から漏れていた。ノックすると音が止まった。動悸を意識しながらドアを開ける。
「浅野くん」
 ピアノに向かっていた幸野由比が振り返って云った。
「いつもここにいるのか」
 彼女は頷き、云った。
「教室では、息が出来ない」
 そう云ってピアノに向かい背を向けてしまう。僕は慌てて云った。
「ピアノ、弾けるようになったんだ。よかったな、」
 彼女は振り返り、少し微笑んで頷いた。
「あのさ、これさ、遅くなっちまったんだけどさ、」
 僕は薄い冊子を緊張しながら差し出した。
「なに?」
「みやげ」
 彼女は手を出して受け取り、目次をめくった。それから嬉しそうに、微笑んでうつむいた。
「ありがとう」
 僕は胸をなで下ろした。
「あ、アラベスクの意味、調べたよ」
 彼女は顔を上げ、目を見開いた。
「ほんとに調べたんだ」
「ああ」
 彼女は数秒おいてから笑顔になった。
「ほんとに調べるとは思わなかった」
 彼女の笑顔は貴重だ。
 わらえるんじゃんか、なんで教室では無表情なんだよ。

 ──教室では、息が出来ない──

「昼メシは?」
「食べたよ」
 彼女が指差した窓際には、ヨーグルト飲料の紙パックが置いてあった。
「あれだけ?」
「うん」
 彼女も窓際を見やった。今日も彼女の背後には青空が広がっていた。
「突き指しちゃったから、ちょっと、指が動かないんだ。練習できなかったから」
 彼女はそう云ってピアノに向かい、少し弾いてみせた。少しのあいだだったが凄まじいテンポの音階の羅列がレッスン室に響き渡った。それから振り返り、
「これが、エチュード。毎日やるの」
「エチュードって?」
「練習曲」
 それから首を傾げて、まだ聴く、と訊いた。
「アラベスクが聴きたい」
「アラベスク」
 彼女は云い、ピアノに向かった。
 さっきの強い調子とは全く異なった、やわらかな響きを彼女が奏で始めた。最初は緩やかに、少し戸惑ったり、微笑んだり、メロディが変化した。彼女は目を閉じて、呼吸するように、弾いた。チャイムが鳴るまで、僕はレッスン室の壁にもたれかかっていた。彼女は“アラベスク”を弾き続けた。
 呼吸をするように。
 呼吸をするように、弾き続けた。



──(c) 泉由良 ──


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