雨闇 ameyami


 ひとつめの記憶。
 私は部屋の中にうずくまっている。明かりのついていない部屋の中だ。外は雨。
 それはたぶんいつ如何なる時の記憶でもない。と同時にこの部屋が、すべての原風景である。
 電話が鳴リ出す。が、私は取らない。硬く、まるで自分を守ろうとするかのように硬く、膝と肩を抱き締めて動かない。脅迫的だな、電話の音って。
 私は目を閉じたまま、世界中で鳴り響いているであろう、その音のことを想う。ぴかぴかした高層ビルの受付にある電話、地下鉄駅構内によっつ並んだ公衆電話、駄菓子屋の隅っこにあるピンク電話。世界中の、すべての電話が雨の中しゃらしゃらと鳴り続けている。誰かを呼ぶために。誰かを……。
 でも何処にもその電話に出る人はいない。
 何故ならこの世界には誰ひとりいないのだから。
 みんな何処かにいってしまったのだ。ここはそう云う世界なのだ。この星が球だなんてうそ、きっと端にいくほど滑り落ち易い形をしているはずだ。

 考えると怖くなって絶対にまともに生きてはいけないから、何も考えないようにしているけれど、些細なきっかけで私はあの部屋に舞い戻るだろう。例えば一本の電話で。例えば……。

 その日は金曜日で、金曜日の最後のレッスンはゆきえちゃんだった。
 コンニチハ。
 ゆきえちゃんはいつも微かにうなずいて挨拶をする。実際にはわずかに息がもれるばかりなのだが、ともかくきちんと挨拶をする。彼女は恐ろしく無口、そして無愛想だ。無駄のない動作で、壁際の小さなソファに自分の赤い手提げ袋を置き、楽譜を取り出してピアノの横に立つ。
「どうぞ」
 私が云うとうなずいて、茜色の布張りの椅子に行儀よく腰を下ろす。
 レッスンは四十五分間。私は壁の時計を目だけ動かしてちらりと見上げ、ゆきえちゃんが練習曲を弾き始める。外が曇ってきたようだ。蒸し暑い。ゆきえちゃんがうっすらと汗をかいているのに気付いて、私は扇風機を引っ張ってきた。
「じゃあ、まずハノン。レガートから弾いて」
 ゆきえちゃんの手が綺麗だな。
 ハノンにつっかえる度に声を掛けながら、私は別のことを考えてしまう。
「もうちょっと背筋を伸ばしてね。次、スタカート、強く」
 まるでお姫さまの手みたい。匿名的な、架空のお姫さまの手。ほっそりした白い指に、まだ何の手入れもされたことのないつややかな爪。時に私は、この繊細な手に力強く鍵盤を叩くようにを命じるのは、とても非道なことだとさえ感じるのだ。
 それは時々なのだけれど。
 ピアノ教師になって何年が経つだろう。

 レッスンが終わると私は大きな瓶に作っておいたカルピスを注いでやり、ゆきえちゃんは少しずつそれを飲んだ。おかわりは、ときくと首を横に振る。意思の疎通のために首の動きを最大限まで利用するのだろう。
 私が考えているうちにコップをこん、と置く音がして、サヨナラ、と呟いて、ゆきえちゃんは部屋を出て行った。気付いて慌てて後を追うが、廊下には誰もいない。私は呆然としてしまう。めまいを覚えて、力が抜けて、誰もいない廊下に座り込みたくなる。いない。
「センセイ」
 アメ、
 と云う声がして、ゆきえちゃんが目の前にまっすぐに立った。白い無表情な顔が、闇の中に浮かび上がっている。
 雨音が外から響いてきていた。驚くほど薄暗い。
「ああ、雨ね、傘を貸すわね」
 私はうわの空で口走り、黄色い子供用の傘を靴箱から出した。ゆきえちゃんは黙礼をしてくるりと後ろを向き、出ていった。
 開いたドアの向こうには、黄色い傘のゆきえちゃん。
 あの傘は私が子どもの頃使っていた物だ。それを誰か他の子が差していて、私はその子にピアノを教えているなんて、全く混乱してしまう。いつからそんなことになったのかしら。
 裕紀のことを思い出す。
 いつからこんなことになったのかしら。
 雨は好きだと思う。それは強ければ強いほどいい。直線的に地面に当たって激しく跳ね返るようなやつがいい。薄い瞬間のフラッシュ、躯を打つ雷の音。嵐の夜、裕紀と私は窓際の毛布の中で、いつも吹き荒れる空と雨を見ながら眠った。
 今は、ひとりで。

 私は部屋を片付け、夕食を作って食べた。
 十時を過ぎた頃、電話が鳴った。出てみると低い女のひとの声で名字を告げて、少し迷ってからそれはゆきえちゃんの姓であることに気付いた。ゆきえちゃんの母親だった。
「ゆきえは何時頃、そちらを出ましたでしょうか」
 彼女はいやにゆっくりとそう云い、私は酷く困惑した。
「いつも通り、六時五十分ぐらいです……」
 ゆきえちゃんがまだ帰宅していないそうだ。彼女の声は感情を抑えようとしているのか、とても無表情に聞こえた。

 また別の記憶。
「おかしいんです……。私は沢山のひとを失ってきました。大切なひとも、よく知らないままになってしまったひとも。みんな静かにドアを開けて、私の世界から出ていきました。静か過ぎて気付かなかったこともあるくらい。年端のいかない小学生も、心から愛していた恋人も。なのに、なのに……、」
 私だけは決して何処にもいかないんです。
「私自身は消えないんです。どうしてですか? 教えて下さい。どうしてなの?」
 ──そんな簡単なこともわからないんですか。それは、あなたが、あなた自身だからでしょう。
「…………」
 ──あなたは一体何に怯えているんですか? 自分が消えてしまうことにですか、それとも自分だけ残ってしまうことの方なのか。
「だって!私は、雨の中を、捜しに、出掛けて、」
 その真っ白い部屋で彼女は喋り続けた。何かたまらなく心配なのだ。

 ゆきえちゃんがまだ帰っていないとのこと。
 受話器を置いて、深く息を吐く。部屋がぐにゃぐにゃになって揺らいでいるような気がした。気分が悪い。ただ、必死で、外に出なくてはと思った。捜しにいこう。
 でも、一体誰を捜すというのだろう。
 マンションの階段を降りて、傘を差す。ゆきえちゃんは今、私の昔の黄色い傘を差しているだろうか。今の私の傘は黒くて大きくて重い。びしょ濡れのアスファルトの道路を、水が流れて行く。高い方から、低い方へ。サンダルを履いた素足が汚れる。私は必死で冷静になろうとしていることに気付く。
 あの日の私も同じようにして電話を掛けた。裕紀が帰って来ないの。声のぼやけ具合までそっくりだ。
 裕紀が、帰ってこないの……。
 高い方から低い方へ、水は流れる……。
 黄色い傘と、ゆきえちゃん。
 再び、めまいを覚えた。

 もうひとつ、捏造されたかのように曖昧な記憶。
 でもこれは事実。

 裕紀とは四年間、同じ部屋に住んでいた。そして五年目の夏が訪れて、日々はふいとと終わってしまったのだ。
 きっかけは、電話。
 私はその夜、必死で電話を掛け続けていた。
「裕紀が帰って来ないの」
 丑三つ時までは、そんなことも一度くらいあるよ電話するの忘れてるんでしょ、と云っていた友人たちの声も、明け方近くになると真剣味を帯びた。裕紀はそんなに気ままなタイプではなかったし、私に対してとても誠実なのだから。
「まだ帰って来ない……」
 十何回目かの電話の後、受話器を置いて私はぼんやりした。食器棚にはめ込まれたガラスに映る自分の顔に、鏡でなくてもそれとわかるくらい酷い隈ができている。壁の時計の秒針が、酷く耳障りに音をたてて動き続けていた。
 六時十三分、電話が鳴った。
「え……、えっと……、」
 いたいのかくにん。って、何のことだかわからない。
 いたいのかくにん。
 私は本能的に次の言葉を呟いていた。
「済みません、私にはよくわからないと思います。この電話番号に連絡して下さいませんか……」
 そして、裕紀と一番仲の良い友人の名前を挙げ、電話を切った。
 何かがやってくる気配がして、床に座り込む。そう、この世界はそう云うところなのだ……。
 時計の針がぐるぐる進んでいくのが視界の端に捕らえられたが、裕紀のいない場所から私は動かなかった。

 結局、何が原因なのだろう、と部屋に帰ってから私は思った。
 この世界の、少なくとも私が立っている場所は、本当に滑り落ち易いらしい。念入りに磨き込んであって、たぶん表面張力みたいに、男の人でも、小学生の女の子でも、こぼれてしまう一秒前。
 私は裕紀の遺体は見なかったけれど、彼の骨はきっと彼のものではなかったと思う。こぼれた後には何も残らない。雨だけが強く降る。
 私の部屋は暗い。シャワーを浴びて、タオルケットの中に潜り込む。
 目を閉じてしまえばこの部屋はここではない違う次元に飛翔して、私は表面上いつもと変わらず生きていくことが出来るだろう。ひとりでいるのは安心。誰もいなくならないから。
 明日はみんな帰ってきますように……。
 嘘っぱちみたいな言葉を呟いて、私は眠ろうとしてみた。目を固く閉じて、眉根を寄せて。
 ゆきえちゃん、あなたは何処にいるの。
 裕紀、早く帰ってきて。

 外は、
 強い雨。



──(c) 泉由良 ──


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