秋子さん
にゃんしー
 空の色は、覚えていない。
 校舎は中庭を囲むような配置だったから、たぶん空は四角かったと思う。
 私たちはみんなひどくありふれた生徒で、灰色の校舎の壁に雨粒がいくつもの線を残すような、どこにでもある学校の風景。
 どこにでもあるから、ここにあってもいい。そう言うとあのひとはおかしそうに笑った。
 ここにないものは、どこにもないものだ。あのひとには分かっていたのだろう。


「秋子さん、何読んでるんですか?」
 そう声をかけると、秋子さんは銀縁眼鏡の縁を整え、手に持った文庫本から顔を上げた。
 秋子さんのことは、いつからか覚えていないくらい頃から知っていた。記憶を辿れば、夜の公園で親が迎えに来るまでシーソーをしたり、名探偵コナンの映画を手を繋いで見に行ったり、市民プールで泳いだあと水着の形のくっきりした日焼けに悲鳴を上げながらシャワーをかけあったり、並んで昼寝をしたり。家が近かったし、お互いの両親の仲もまだ良かった。
 秋子さんは眼鏡をかけ始めた頃から、実家の煙草屋で店番をするようになった。勘定台の小さなガラス戸を開けたまま、セーラー服姿でいつも文庫本を開いていた。その頃は、三つ年上の秋子さんに、私は敬語を使うようになっていた。
「潮騒、三島由紀夫の」
 秋子さんはそう言い、文庫本を閉じた。
 それから私はいつものように、勘定台に身体を預け、いろんな話を並べる。大抵は学校でのくだらない話。全く内容のなかったそれらを、秋子さんは熱心に聞き入り、ときどき頷きを返してくれる。話にオチをつけると、秋子さんは口元に手を当てたまま、猫のような声で笑い、三つ編みを揺らした。

 秋子さんに憧れていた。
 それはいつからなのか、はっきり覚えている。
 友だちに好きな人が出来て、それを囃し立てた日の帰り道、私は秋子さんに、
「好きなひとは、いますか?」
 と訊いたのだった。
 秋子さんは微笑を浮かべ、
「どうでしょう?」
 と答えた。
 その時の秋子さんの唇のいびつな形を、今でも鮮明に思い出せる。クラスの友だちの明るいだけの笑顔とは違う、例えばコンビニでビニルテープをずらし盗み読みしたビッグコミックスピリッツのような妖艶さで、秋子さんは私から秘密を隠したのだった。私はそれを幼い悪戯心で暴きたくなった。


 秋子さんとの、勘定台越しの関係は続いた。帰り道にはいつも立ち寄る。秋子さんの煙草を扱う仕草が好きだった。誰かが煙草を買いにくると、慣れた調子で箱を手に取り手早く勘定を済ませる。お客さんから質問があると、淀みなくすらすらと答えた。なかには柄の悪いお客さんもいたが、秋子さんは煙草屋にはおよそ似つかわしくない丁寧な振る舞いで応じるのだった。未成年の男の子が買いに来た時には、おだやかな、しかし芯の通った口調で納得させるまで諭してあげていた。それでいて、煙草とは到底縁が無さそうな白く繊細な肌が美しかった。笑うときには、眼鏡の奥で二重瞼がやわらかそうな皺を作る。そんな秋子さんが、恋愛の話のときだけ意地悪くなるのが面白くて、私は何度も話を作って嘘の恋愛相談をした。

 季節はたぶん春か夏、激しい雨が降って蒸し暑かった日の放課後。私は校舎の玄関で、クラスの男の子に告白された。友だちだと思っていたその人が、急に強く見えた。ゴツゴツした男っぽい目だった。怖かった。怖くて堪らなかった。私は返事も半分に言葉を濁すと、豪雨に濡れるグラウンドに飛び出た。後ろから大きな声がしたが、振り返りもせず学生カバンを頭の上に乗せて全速力で逃げた。
 やっとの思いで秋子さんの煙草屋に駆け込むと、ガラス戸は開いたまま、しかし秋子さんの姿が見えなかった。勘定台の上には、カバーのかかっていないいつもの文庫本と、雨に濡れた眼鏡と、つり銭が無防備に置かれてあった。奥のほうから、甘ったるい煙草の煙の匂いがして、私は上半身から滑り込ませる形で勘定台を乗り越え、奥の部屋を覗きこんだ。

 四畳半の和室に足を投げ出して煙草を吸っているのは、秋子さんだった。三つ編みをほどいた髪の毛は背中まで伸びて波打っていて、丸い雨粒がいくつか光っていた。障子から透かしたよわい光が、雨に濡れたままの秋子さんの細い身体を恥ずかしげもなく目の前に晒した。白色のブラウスはべたりと肌に貼りつき薄桃色を見せていて、紺色のプリーツスカートは絞れば水が溢れるほどに重く、秋子さんの太腿を露わにしていた。
 秋子さんが私に気づいて、無理矢理みたいに微笑んだ。白い頬に赤みが上気していて、震える呼吸を聞かなくても、秋子さんが泣いていたのは分かった。
「私ね、彼氏と別れちゃった」
 秋子さんはそう言い、音を立てて煙草を吸い込むと、煙を伴う大きなため息を吐いた。眼鏡をしていない目元は昔と変わらない幼さで、涙を湛えさせたまま、私を真っ直ぐに見据えた。
「ねえ、煙草、吸ってみる?」

 今でも時々、あの雨の匂いと煙草の匂いと、それとは違う、女のひとの匂いで満ちた和室を思い出す。くらくらするほど苦い味を思い出す。それはきっと憧れではなくて、罪悪感でもなく、強いて云えばそれは、憧れであって罪悪感であって恋であって、それでも、ひとつひとつには届かない。ただ、おとなになるのが怖かっただけだ。
 秋子さんだって、そうだ。秋子さんが読んでいる「潮騒」の栞は、いつだって同じページから動いたことはなかった。

 私と秋子さんはそれから三日間だけ、恋人をした。サーティワンアイスクリームでダブルのアイスを分け合った。植物園で頬を寄せ合って写真を撮った。図書館で机を並べて勉強をした。イヤリングをかたっぽずつ分けてつけてみた。秋子さんの部屋で、ソファに寝転がって「三月のライオン」を回し読みした。秋子さんが、ずいぶんと前から煙草を習慣にしているのだということを、そのときになって知った。秋子さんが煙草を吸ったあと、私たちはキスをした。
 四日目、私は別れようと言った。秋子さんとのキスのほろ苦い味と、舌のざらつきには、知らない快感があって、怖かった。
 秋子さんは笑って、何も言わなかったと思う。
 数日して、秋子さんに貸した本やアクセサリーが、郵便で送られてきた。無印良品のクラフト封筒はマスキングテープでかわいく包装されていて、しかし手紙の類は入っていなかった。

 私たちはおとなになるのが怖くて、少女で居続けるためには寄り添う相手が必要なはずだった。
 しかし本当は皆、お互いの距離感を把握できるほどに十分賢くて、おとなだったのかもしれない。
 私は秋子さんを利用したし、秋子さんも、私を利用した。





 結婚してしばらくしてから仕事をやめた。久しぶりに実家に顔を出すことにして、今の実家からは少し離れた、元々住んでいた懐かしい町に車を走らせていると、
 秋子さんの煙草屋が、コンビニに変わっているのに気が付いた。その前の道を、三つ編みで銀縁眼鏡を掛けた、セーラー服の女の子が歩道を歩いていく。何年生だろうか。

 フロントガラスの向こうには、届かないような青い空。


 あのとき、私は中学三年生だった。

戻る