尼崎文学だらけ
ブース 掌編1
ふじ文庫
タイトル 箱庭療法 三.
著者 珠宮フジ子
価格 300円
カテゴリ 純文学
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紹介文
誰かが居た日常を。誰かが居なくなった日常を。
それでも、世界は続いていくというそのことを。
とある疑似家族のちょっとずれた日常を綴った短篇集。
今回のテーマは「長男の結婚」です。
136p・300円
【収録内容】
火星人と私
キャッチ-22
星を踏んで帰る
対岸の夢

 火星人と暮らしていたことがある。私がまだ制服のスカートを着ていた頃のことだ。
 
 その夏のはじめ、私は交通事故に遭って、町のはずれの古い病院に二週間ばかり入院していたのだけど、退院して家に帰ったら、火星人が居着いていたのだ。
 彼は一見してそうと分かる姿かたちをしているわけではなかった。映画で見るような火星人、ドーム型の頭にたくさんの触手が生えている、グロテスクな生き物のかたちではなくって、まるっきり私たちと同じ、人間のかたちをしていた。胴体があって、二本の脚が伸びていて、肩があって腕が伸びていて、肩の間には首があって、首の上に頭が乗っかっていた。黒い髪は短く刈り揃えられて、同じ色の縁の眼鏡が、はっきりとした目鼻立ちを幾分か落ち着けていた。眼鏡の奥の大きな目は、あちらへこちらへとよくよく動いて、ひとところに留まることがないようだった。
 そんな様子だったから、入院中の荷物を詰めた鞄を肩に提げたままの私は、家のリビングの真ん中でじっと立っている彼を見たときに、泥棒がそこに居るのかと思って、叫び声をあげそうになったのだ。ただでさえ、久しぶりの家だからということで緊張していたのに、見知らぬ誰かがそこにいて、私の方に注意を向けるでもなく、きょろきょろと部屋の中を見回しているのだから、私の驚きは妥当だった、と思う。ただ、私のせき止められていた息が声として吐き出されようとした瞬間に、彼の目が私を向いたものだから、黒い目が、今度はあんまりじっと動かずに私を見つめたものだから、私はまた、息を止めて口を閉ざしてしまったのである。
 彼の目の黒いのといったら、その時までに私が知っていた誰の目よりも黒かった。じっと見つめられるのを見つめ返していると、そのまま魂を抜き取られてしまいそうな、底の見えない黒色だった。私はそれと同じ黒色を見たことがあった。彼の目は、夜空とまったく同じ黒色をして、ただ、そこにあるべき星の光をまったく欠いていた。満月の夜でさえ夜空には一等星が輝くにも関わらず、だ。だから私は、彼を泥棒だと思ったことも、彼のまなざしに驚いたことも忘れて、彼の目の中の暗い夜空を眺めながら、なんてさびしい空なんだろう、と、身勝手な憐憫を寄せていた。