![]() |
|
||||||||||||||||
そうして休憩を挟みつつ、勉強が終わったらなあはあたしに寄りかかってあた |
| ||||||||||
この物語は、子どもの性的虐待を大きいテーマとして取り扱っている作品である。 が、テーマとは別に、この物語の魅力は主人公〈まお〉の愛情だと思う。 〈まお〉は、幼児期に性的虐待を受けていた子ども〈なあ〉を、そうとは知らず、弟のように愛す。 結果としてそれは〈まお〉にとっては悲劇だったのかもしれない。 彼女はそれによってたくさん傷つき、苦しんでいく。彼女自身も、大切に思う〈なあ〉を傷つける。お互いにお互いを傷つけて苦しんで、それでも〈まお〉は〈なあ〉の手を放すことができない。逃げても逃げきれない。〈なあ〉が手を伸ばせば、彼女はそれを突き放すことができないのだ。 それは良い結果を生まないかもしれない、余計にお互いを傷つけるだけかもしれない。 けれど、何度も何度も選択を迫られるたび、自分自身が傷つけられる可能性を天秤にかけて、それでも最終的に〈なあ〉を選び続ける彼女を、私はとても尊いと感じた。 自己犠牲とはまた違う。傷つきたくないという恐れと怯えを抱えながら、間違った結果を生むかもしれないと思いながら、それでも愛した人を信じようとする〈まお〉の心は、抱きしめいほど愛おしい。 「なあは、あたしが育てたんだから!」 この言葉に込められた思いを、読んでみてほしい。 | ||||||||||
推薦者 | なな | |||||||||
推薦ポイント | 物語・構成が好き |
| ||||||||||
「性的虐待を受けた子ども」をテーマにした作品はたくさんある。「淅瀝の森で君を愛す」もその一つだ。幼少時に大きな性のトラウマを持つ少年〈なあ〉は、美しい容姿と「社会に適応しにくい不安定な精神」を併せ持つ。14歳の少女〈まお〉は、兄の結婚によって〈なあ〉と暮らし始めた。世話焼きの〈まお〉は、常識知らずの甥っ子の面倒を甲斐甲斐しくみる。家族的な絆の中で、〈なあ〉は腹を空かせた子どもが食べ物を貪るように、愛を得ようと〈まお〉を求める。その結果、〈なあ〉は大人になっていく中で、決定的な間違いを犯し、事態は急転する。 この物語は、虐待を受けた〈なあ〉自身ではなく、彼を救おうとする〈まお〉の視点から描かれている。可愛い天使のような〈なあ〉。そして、相手を愛する方法を知らない〈なあ〉。〈まお〉は、そんな〈なあ〉のありのままの姿を、受け入れようとしながらも、彼の病んだ世界に巻き込まれて傷ついていく。この物語の主人公は虐待の「被害者」ではなく、「その周りの人」である。 〈まお〉は〈なあ〉との依存関係に苦しみながら、徹底的に「〈他者〉を救おうとする〈自己〉」と向き合うことになる。〈まお〉はその過程の中で、自分もまた、世間一般とは異なる「人の愛し方」をすることに気づく。〈なあ〉との関係があったからこそ、〈まお〉は「人の愛し方」という問題から逃げることができなかった。その結果として〈自己〉のあり方を捉えなおし、相対化していくことができた。この小説は、14歳の少女が、「理解できない〈他者〉」の存在に悩み、葛藤することを通じて、大人の女性として成長し、自立していく道筋を描いているのだ。 「誰かを愛する」ということは、普遍化して定式化できるものではない。十人十色の愛し方がある。私たちは、それを「当たり前」だと思っている。なのに、日常生活では、ぼんやりと「恋愛」や「家族」のあるべき姿を、勝手に前提にしてしまう。だから、そんな日常生活が壊れて、「当たり前」が通用しない相手と取っ組み合って付き合ううちに、初めてその「人の愛し方」の規範は姿を現す。穏やかな生活を失うのと引き換えに、規範から解放され「愛すること」の自由を手にすることができるのだ。この物語は、「どうしようもない関係」の先にある、いや、あって欲しいと願うような「希望」を描こうとしている、と私は思った。 | ||||||||||
推薦者 | 宇野寧湖 | |||||||||
推薦ポイント | 物語・構成が好き |