尼崎文学だらけ
ブース 大衆小説A
ザネリ
タイトル 晩年のままごと
著者 オカワダアキナ
価格 500円
カテゴリ 大衆小説
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紹介文
生方里奈、旧姓・片瀬里奈。結婚してもしなくても、あだ名はカタリナ。
聖カタリナはキリストと婚約し殉教した女で、この大層なあだ名はこれまた祈りの名を持つ三角霧枝━━キリエから与えられた。
キリエに本当の恋をすることができたら、どんなによかったろう。抱き合ってなお、身体は遠い。

その夏、東京都23区には白鳥が襲来した。生まれつき心臓が右側にあるカタリナは、先の見えない日々を過ごしていた。
浮気者の夫をやりすごし自分もまた弟と関係する、どうしようもない毎日。
「ほんとうの愛とか情熱とかを傾けられるものがあったら、こうはなっていなかった。どうしてこうなった? きっと、心臓が右で、まちがったデザインで生まれてきてしまったからだ」
旧友・キリエと再会し一緒に暮らすことになったが、そこへ白いおとこが加わり”晩年”は奇妙な方向へ転がっていく。もの言わぬ同居人、身長180cmの骨格模型━━。

 一 祈りの間のねごと 


 ライターと傘に金はかけない、使い捨てでかまわない。というのはあの子の信条でありルール、要するに、あの子の生き方みたいなものがそこにあるんだと思っている。んです。

 眠れずに天井を見上げたり目をつぶってみたりを繰り返していると、自分の身体が寝室いっぱいに膨らんでいるような気がした。のを感じた次の瞬間、今度は自分がぎゅうっと小さくなって、天井も壁もはるか遠くにある気がした。部屋と身体のサイズ感がつかめず、不思議の国のアリスのことを思い出してみるけどここは日本で現実で、わたしは「わたしを飲んで!」というくすりを飲んではいません。
 こういう身体の違和感みたいなものがいつも眠りを妨げ、一度気になってしまうとずっとつきまとう。お腹もちょっと痛い。隣のキリエはすやすや寝ていて、わたしのぶんまで眠ってくれているみたいだと思った。ら、キリエがねごとを言った。
「沼がぬかるんでるよ」
 寝ぼけているというより、夢の中から言葉だけがうつつにこぼれてきてしまった、そういうねごとだった。キリエは毎晩ねごとを言う。いびきはかかないし寝息も静かだけど、寝ながら何か言う。こっそり頬をなぜてみたが、まるで起きる気配はなかった。
「沼がね、ぬかるんでるんだよ」
 キリエは繰り返した。すべての明かりを消した寝室は暗いけど、開けた窓に切り取られた夜空はぼうっと白く光り(曇っているからでしょうね)、ずっと起きているわたしの目が暗闇に慣れたのもあってキリエの寝顔ははっきり見えた。まぶたの裏で眼球がころころ動いているのすら見えた。夢をみている。
 ばらばらと枕に広がる髪、ほそい毛先が窓から入り込んだ弱い風にほんの少し、揺れた。まっすぐで短いそれにはもちろん枝毛なんかない、キリエの細胞分裂は完璧に行なわれている。
 うまく眠れずにいるのは生理前だからかもしれないなと思った。腹の奥がうごめき重たい。十一歳の初潮以来、出血の予感としての腹痛は毎月やってくる。律儀に、暴力的に。いや、痛みというほどではない、うずいてそわそわさせるだけだ。でもそれは暴力だ。もろもろおさまりますようにと個人的なお祈りを心中でとなえてみる。ところでキリエはとても生理が軽い。らしい。
「……そうだね。白鳥がたくさんいるよ」
 わたしはキリエのねごとにそう返してみた。ごろんと向かい合って、かたちの良い鼻に向かって言った。