「基は今、何歳だったっけ?」 私に向けるのとは異なる、柔らかい質の声でもって、彼は子供に尋ねる。基、と彼は子供のことを呼んだ。同じ名前で呼ばれていた人物のことを私も知っている。私よりも彼の方が詳しいだろう。幾度か彼と共にこの地へ滞在したことのある、彼の師である男が、子供と同じ名前だった。彼の師は子供が嫌いであった。今、彼の隣に座っている子供のような、口元を彼の指に拭われながら、あどけない目で彼を、私を見上げる子供のような、無垢な生き物を、彼の師は厭うていた。故に、彼は幼い子をもっていた時分であっても、彼の師と二人きりであったのやもしれぬ。 「ごさい」 「そうか。じゃあ、五年だな」 はじめの一声は子供に向けて、後は私に向けて、言われたものだろう。彼の体躯に見合った大きな手の平が、子供の頭を撫でる。子供は肩をすくめてくすぐったそうにしながらも、そこから動こうとはしていなかった。桜色をした小さな唇が、ぽかんと開かれたままでいる。 「庭が気になる?」 彼の問いかけへ、子供が大きく頷いた。彼は、憶測が間違っていなかったからだろうか、うれしそうに「そうか」と言って、子供の頭を撫でるのをやめる。 「とんぼが、いた。いっぱい。ばったも」 「じゃあ、虫取りでもするか。先に行っといで、基。それで、父さんに虫の居るところ教えてくれ」 彼が言うと、子供は素直に「わかった」と頷く。彼が、子供の手からガラスのコップを取り上げると、子供は勢いよく立ち上がって、こちらへ背を向ける。そのまま庭へ出るのに走っていくのかと思ったら、急にこちらを振り向いた。何か、と思わず目を見開いていると、子供は軽く頭を下げる。きっと、そうするように教えられているのだろう。子供に向けて片手を掲げて振ってやる。それを見たのか、見ていないのかは分からないが、顔を上げた子供は、今度こそこちらに背を向けて走り出し、すぐにふすまの影に隠れて見えなくなった。彼はまだ、子供の駆けていった方を見ている。驚くほど穏やかな眼差しだった。 (「能わぬ毒」より)
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