尼崎文学だらけ
ブース 大衆小説B
庭鳥草紙
タイトル 明日香風、吹く
著者 庭鳥
価格 400円
カテゴリ 大衆小説
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紹介文
飛鳥から奈良時代にかけての歴史創作小説。

あらすじ
和銅八年秋―
病床の元明天皇は夢の中で、かつて持統天皇と共に香具山から国見をした日のことを回想する。目を覚ました天皇は、見舞いに来た氷高皇女と檜隈女王に譲位の決意を語る。
表題作の他、「埴安の池で」を収録。

 風が吹いている。頬を撫でるのは明日香風。随行の女官たちの領巾がはためいている。遥かに下を見おろせば、民びとの住まいから炊の煙がのぼり、干した白い布が揺れていた。
「うつくしい景色ね、この新益の京は。氷高の目には、何が見えて?」
風が言葉を運んでくる。娘と、その祖母のやりとりを。
 丘を飛んでいるのは、鷗だろうか。香具山で国見をした古い世の天皇の歌が目に浮かぶようだ。「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は」と歌われた、あの光景がそのままに。

「民びとが、その暮らしが見えますわ。お祖母さま」
「その通りよ、煮炊きの煙も干された衣も平らかな暮らしそのもの。天の香具山にひるがえっている白い衣のようにも見えなくて?」
 国見の丘に立つ娘は、目を見開いて新しい京を寿ぐ祖母を見つめている。薄紫の裳を着けた娘は十代の半ば頃。結い上げた髪は瑞々しく、まだ初々しい少女の面影を残している。
 新しい藤原の京に移ってまだ三月も経っていない。京はまだ造りかけで、民草の活気には程遠い状態だった。
 それでも。孫娘に語る祖母には、見えているのだ……この新しい京に溢れんばかりの人が行き交い、賑やかに活気あふれる日を。
 女帝は高らかに謳いあげる。丘に山に新しい京の隅々まで行き渡るような国誉めの言葉を。
「春過ぎて夏きたるらし白たへの衣ほしたり天の香具山」



 風が吹いている。頬を撫でるのは……
「違うわ。ここは平城。明日香ではない」
重かった瞼をあげながら呟くと、心配そうに覗き込む娘の姿が目に入った。
「ああ、氷高。来ていたの。夢を見ていたわ、ずっと昔の、藤原の新益京にいた頃の夢を」
安心したように氷高は頷き、自分の後ろを指し示した。誰かがいるようだが影になっていてよく見えない。
「母上、檜隈が見舞いに来てくれましたの。覚えていらっしゃるかしら?従姉妹の檜隈のことを」
 檜隈……ぼんやりとした頭でそれは誰だっただろうと考え、姉の夫の娘の名だったと思い出す。そう、あの日あの国見のときにも来ていたわ。檜隈女王も。
「分かるわ、檜隈……高市の義兄上の一の姫」
口に出して言うと、国見の日の古い記憶が一気によみがえってくる。氷高の後ろで慎ましく微笑む檜隈……そう、記憶の中の檜隈は物静かで控えめな少女だった。


衣ほしたる天の香具山と謎の女王
万葉集に材をとり、その時代の人々を雄大な世界観とともに生き生きと描いた二つの物語が収録されています。
表題作では、持統天皇の有名な「春過ぎて夏きたるらし」の和歌を主軸に、この歌にまつわる、その夏、その場に生きていた人の思い出が、元明天皇によって懐かしく語られます。あたらしい平城京で新たな天皇として立つ氷高皇女への期待が清々しく、装丁やタイトルとも雰囲気がぴったりです。
さて、万葉集にはたくさんの詠み人しらずの歌があり、また、詠み人の名はわかってもその詳細が不明という場合も多くありますが、本誌の二篇ともに主要人物として登場する檜隈女王もそのひとりです。本作では、残されたただひとつの歌から、この謎の女王の人となりを豊かに想像して物語を彩らせています。控えめで聡明で誇り高い女王はとても個性的で魅力あふれるキャラクター。「わからない」ということが、古代へのロマンをさらに掻き立てるのです。
万葉の時代に興味がある人にはいっそう面白く、そうでない人にも古代日本に興味を持つ良い導入になることでしょう。
推薦者並木 陽
推薦ポイント世界観・設定が好き