出店者名 Picnic
タイトル キスとレモネード
著者 彩村菊乃
価格 500円
ジャンル 純文学
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紹介文
甘酸っぱくて、きらきら。




恋人の梢と喧嘩をして家を飛び出してきた蓮子が辿り着いたのは植物園だった。
――『緑のまにまに』

夜の公園と、煙草と、チョコレート。甘く淡く溶けていく。
――『メルトダウン』

わたしとあなたを分かつのは何?
――『夜に溺死』

初恋はソーダ水みたいに、思い出は泡になる。
――『ソーダ水の午後』



全四篇の物語を収めた短篇集。
「ぼくらはみんな、恋をしていた。」

朱鷺色の空の端にまだうっすらと濃紺の夜の名残をとどめる朝、私は唐突に目を覚ました。夜中じゅう開け放っていた窓からはまだ排ガスに侵されていない清冽な空気が日焼けしたレースのカーテンを揺らしている。ベッドの上で思い切り深呼吸すると、朝露に濡れた生まれたての空気の味がした。
「いくらなんでも早起きすぎたな」
 時計の針はいつも起床する時間よりずいぶん早い時刻を指し示していた。飼い猫のシロとクロも、お揃いの化石みたいにクッションの上で仲良く丸まっている。
 一度目が覚めてしまうとなかなか寝付けない自分の体質をうらみながら、もぞもぞと小学校の入学祝いに買ってもらった年季の入った木製ベッドを軋ませて身体を起こす。洗い晒したガーゼのパジャマは寝汗を吸い込んでしっとりと肌になじんでいる。首筋にべたりと貼り付く黒髪に、夏だ、と思った。今日から夏休みなのだから、当然すぎる事実ではあるけれど。足音を立てないようにそうっと部屋のドアを開け、慎重に廊下に爪先を下ろす。家族で一番早起きの母もまだ起きてきていないようだ。少し早すぎるけれど朝食でも摂ろうかとキッチンへ向かおうとしたとき、それは風のように流れ込んだ。
「歌……?」
初めは小鳥のさえずりかと思った。けれど、耳を澄ませてみると人の歌声であることがわかった。歌詞は聞き取れないけれど、少女の声だ。多分、私と同じ年頃の。出窓から身を乗り出して息を凝らす。
「どこから、聞こえるんだろう」
 どこまでも透き徹ったガラスのような歌声は、さながら教会の鐘のように遠く近く響く。切なく胸をかきむしられる旋律だ。遥かな異国の民謡のような、寂しげで物憂げで蠱惑的なメロディ。
「探しに行って、みようか」
 歌声の主を探すなんてこと、普段の私には考えられないまねだ。おせっかい好きの母に見つからないようこっそりと学校指定の野暮ったいジャージを着込み、寝乱れた髪を頭のてっぺんでひとつに束ね、少々くたびれてしまった運動靴に爪先を押し込んだ。もし見つかっても早朝のジョギングだと言い訳できるように。静かに玄関の真鍮製のドアノブから手を離すと、ドアに嵌まった小さなステンドグラスが朝日を受けてウインクするようにきらめいた。
私はその歌声を目指して駆け出した。


夏が楽しみになる一冊
「純文学」というよりは、「純度の高い文学」というべきかもしれない。
お酒でいえばウォッカとかジンとか、そのへんだ。
読んでスカッとしちゃえ。

「キスとレモネード」は、

「緑のまにまに」
「メルトダウン」
「夜に溺死」
「ソーダ水の午後」

の四篇からなる短編集。
なんというか、書き込みが丁寧なのだ。
描かれているものへの愛着を感じる。
僕の好きな都都逸に

恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす

というのがあるんだけど、
彩村さんはその蛍のように、彼女がきっと愛している対象のことを
声に出さずただひかるように、丹念に描いている、気がする。
それを読んでいて、美しい、と感じるのだと思う。

「緑のまにまに」「ソーダ水の午後」の二篇が特に好き。

緑のまにまに、は、
主人公とその彼氏とが植物園で過ごす何気ない日々が
淡々と描かれている。
エッセイに近いかもしれない。
萌緑色の夏くさい「あたりまえのこと」がゆっくりと心に染み渡ってきて、
とても豊かな気持ちになる。

「ソーダ水の午後」は、
幻想風のお話。主人公が、ふしぎな女の子と海に行く話。
夏ってね、そうなんだ。すこしおかしくて、生と死の境があいまいになって、
何処かに行ってしまいそうになる。
何処か、というか、行き先は海しかないんだけど。
主人公と女の子が海を見つけたときの描写がとても淡くて、やさしくて、
ああこういうふうに海を見つけたいな、と思ってしまった。
言うてる間にもうすぐ夏が訪れるので、今年はこんな海に出会えるだろうか。

夏が楽しみになる一冊だ。
推薦者にゃんしー

約束の場所に咲く花の香と
 見つめることすらためらわれるようなうつくしい表紙をひらき、繊細に紡がれてゆく言葉のひとつひとつをひろう行為もおそるおそるだった。草葉の隙間から咲き誇る花を覗き込むようにしてしか物語をひもとけない。しげみをかきわけるような無粋をしてしまえば、花は散ってしまうだろう。そんな緊張感でもって、四篇の物語として切りとられた瞬間の永遠を、細心の注意をはらってページをくってゆく。ふれれば壊れてしまいそうな、という言葉がまったくもってふさわしい短篇集だ。

 なんの本だったか、おさないころに読んだ本で、タイトルを思い出すこともできないが、そこにあった「花うずみ」という言葉だけをおぼえている。地面に穴を掘って、花を入れ、ガラス片で蓋をして埋めなおす。そうすると地中でその花は、永遠に咲きつづけるのだという。
 この本を読んだとき、真っ先に、その「花うずみ」を思い出した。
 はかなく壊れやすい恋や、少年たちの一瞬や、少女たちの決して永遠にはなりきらない関係を、自分だけのたからものとしてそうっと隠す。
 誰のためでもなく咲いた花を、すこしの我欲と、花へのあこがれを込めて永遠に咲きつづけますようにと祈りながら。

「蓮は蕾が開くとき音を出すんだ。なんとも言えない清らかな音を発するそうだよ」
「蓮の音を聞くまでは、一緒にいてもいいよ」

「くちなしの花はね、天国に咲くのよ」

 蓮の蕾が開くとき音をたてるのかを私は知らない、そして、くちなしが天国で咲き誇っているのかも。
 けれど、その遠くまだたどり着いたことのない約束の地でかれらが咲いているということを、信じることと祈ることはできるのだ。
 ガラス片に花を閉じ込めるように本を閉じる。ものがたりにえがかれた一瞬が永遠にみずみずしくありますようにと願う。

 ――そしていつか、もういちど、この本を開くとき、ささやかな願いの成就されていることを、きっとわたしは発見する。
推薦者孤伏澤つたゐ