出店者名 オカワダアキナ
タイトル 拾遺
著者 齊藤
価格 300円
ジャンル 純文学
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紹介文
上手に生きられない少年・青年たちの短編集。全9作。みんなどこか破裂しているが、それを表明せず口をつぐんでいる。どう足掻いても這い上がれない淵で、果てしない季節をかかえている。かんたんに燃やせるし、すぐに破れてしまうものがたり。厭世しつつも「僕」が生きてしまった時間を、憎むことはやめられない。いますぐにでも消えてしまいたい。それでも連ねてしまういくつもの祈り。『そうしたら、もしかしたら、あわよくば、いつか、きっと、僕にも、儚くなれる時がくるのかもしれない。』 首尾一貫して瞋りと憎しみが「僕」の眼を動かしている。かなしみの根源はいつだって理不尽なこの世で、「僕」には殺意が宿っている。しかしその矛先は自分自身だ。

『ねえ、僕を救うのは愛って本当ですか?』

別荘


小説や参考文献が渦高く無造作に積まれた机の前で、煙草を指に挟んだまま猫背でソファに座る男がいる。憂うような視線と、賑やかで煌びやかな歓声。鈍い音。そして虚ろな青があった。部屋の中はブラウン管の灯りのみ。煙草の先端は殆どが灰になっていて、床にこぼれる寸前まできている。逆光で隠れた表情。朱色に照らされた海が、夕刻を告げる。きみは映像を凝視したまま固まっていて、瞬きひとつない。テクニカルタイムアウト、そんな声がしてホイッスルが鳴って、やっとのことでこちらを見た。そんな顔して観るなら、防球ネットのこっち側で、尊くなりたいって素直に嘆けばいいのに。
何のスポーツかなんてとっくに分かっているのに聞いた。なにみてんの?
きみは深い溜息みたいに煙草の煙を吐き出してひと息にバレーボールですと答えた。いつもより不機嫌な声。するとそれに重なるように再びホイッスルが鳴った。そうして、同世代の選手が剥き出しにする戦意を淡々と眺めていた。ほかのメンバーとは違う色のユニフォームを着た選手が、弾かれてコートを大きく外れた球に駆ける。地を這うようにしてすんでのところでそれを掬い上げた。そんな姿を見つめながらきみはまだ無関心を装っている。感情を露わにすることを粗相だと思っている節すらあった。


「僕」の視界を拾い補う
「僕は数取器をポケットに忍ばせて、「僕なんか死ねばいいのにね」の数を毎日カチカチと数えた。昨日は七十二回だった。」(「虚構」)
 ひりひりしている。しとしと降る晩に読みたい。自分の代わりに誰かが泣いてくれているみたいな夜半がいい。好きだった人たちのことを思い出しぎゅっとなる…、のはわたしの感傷によるもので、ほかのかたにどうかは知りません。
「ねえ、「君が死後の世界はあるらしいぜ」って務めて明るく言ったのはさ、僕が「老いぼれる前に一緒に死んで」って言ったことの答えですか?」(「ボーダー」)
 本作は9編の短編集です。エンターテイメントでも表現でもなく、作家自身の記憶のために書かれたもののように思えます。拾遺という題が象徴的、毎日からこぼれおちてゆくいろいろを、拾い補うように書かれた物語たち。
 鴻上尚史が「純文学とは物語の筋を必要としない」と語りました。「それゆえ読むのが難しい」と。この後半部分に異論を唱えたいのは、本作が弱ったこころやあたまにも自然に響いてくるからです。簡潔で削がれた(でもエクボがあるんだよなあ)齊藤さんの文章は、むしろ大きな物語に入っていけないときほど沁み入るように思えました。
 性と生きにくさが語られます。登場人物たちのかなしみは読者のわたしが抱えているものとは別で、かならずしも共感や経験をともないません。けれど「僕」の語る日々が個別具体的で「ノンフィクションでアンハッピーエンド」だからこそ、個人的な痛みに訴えかける普遍性を獲得しています。
「明日、お前が好きだったニラたっぷりの餃子と酒と煙草、そして大量の本を持っていくからどうか許してください。キュウリとナスを近所のスーパーで買って、いまさらだけど迎え火を焚くから、僕のところにも帰ってきてください。」(「東京、渋谷にて」)
 そのへんにいて、そのへんでうずくまり、そのへんでわめく誰かのことがアッサリとした筆致で差し出されている。それならば、ばかげた肉体でもって今日を明日をやりすごさねばならない自分を誰かの小説のようにめくってもいい。絶望と希望とは等しい。
推薦者オカワダアキナ



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