出店者名 ヨモツヘグイニナ
タイトル Last odyssey
著者 孤伏澤つたゐ
価格 300円
ジャンル JUNE
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紹介文
 ――世界の終わってしまいそうな青色というのがあるのなら、きみはそれを伊呂波にみせようと思う?
 ――きみが見たいと望むのなら、俺は俺の内側で枝を絡めあっている木の葉闇だってみせてあげる。


 伊呂波、ぼくは、ぼくのうちがわで晴れわたっている空から、落ちてゆく。いまも落下はつづいていて、どこへたどりつくのか、見当もつかない。


烏丸、海にも森にも、空はかぎりなくひろがっているよ。
そして空は、いつだって宇宙とつながっているんだ。

よにんの少年といちども螺旋を持たなかった博士の最初と最後の物語

『魚たちのH2O』よりしばらくあとの物語ですが、一冊完結しています。
『魚たちのH2O』のウェブカタログはこちら↓
http://necotoco.com/nyanc/amabun/bookview.php?bookid=153

 降りはじめの雨は螺旋がゆるい。雨粒はすぐにほどけて垂直に地面に落ちる。
 僕たちが海へゆくまえの日はいつも雨だね、と伊呂波が呟いた。
 そうだな、と観測鏡をいじりながら柳臣が返事をした。海沙貴は水蓮から借りた博物誌をひらいていた。
 裸眼の僕は窓の外をぼんやりと見つめていた。観測鏡がなければ僕は中空にあるふたつの直線のうち、L線しか見ることができない。――柳臣から回ってきた観測鏡を覗き込むと、雨粒にかすまされてパラフィンをかけたみたいな色の薄い景色とL線は消え、黒い画面にひとすじ白くS線がはしっているのが見える。
 伊呂波はこの線を機械の補助なしに目視できるという。ふたつの平行な直線は少しだけ色の薄くなった雨模様の空にどんな色で存在しているのだろうか。……問いに、意味はない。聞いたところで僕の裸眼が両方の線を同時にとらえることはできないのだから。
 目にあてがっていた観測鏡をはなす。柳臣がこくんとうなづいてそれを受け取って、また感度をさわる。かれは機械を使ってもその直線を瞳にうつすことはできない。
 柳臣の世界には直線はなく、螺旋状に降る雨だけがあったのだ。
 そして、柳臣も海沙貴も伊呂波もいなくなったいまでも、雨は螺旋状に降る。


白に還るものがたり
生物がみな海から生まれたこと、そして海は宇宙から生まれたことを強く意識させる物語でした。死の、滅びの淵にあるというよりは、海へ還っていく間際というイメージで、けれどその海は原始のものではなく、あらゆる生命を育み産み出し、海から巣立った生命が再び帰着するところで有機的に濃密な混沌であるように思います。

同じ場所のはずなのに。描かれる海は様々に表情を変え、白く黒く、楽園のようで単なる断絶のようでもある。誰もが静けさに満ちたそこへ向かう寂しさと悲しさとを感じました。
けれどそれは悲観的なのではなく、揺るぎない事実の結果。有機無機、生命がどのような変質、変態を遂げてもいずれ海に還り、らせんはほどけてまた結ばれる。

純文学にしてSF、個人的な意見ですが萩尾望都先生の絵で見てみたいと思いました。
しんしんとした余韻がどこまでも果てしなく広がるよう。
推薦者凪野基

少年のなかには、世界が内包されている。
 ──僕たちは(この書評については、私の一人称は「僕」になるのだ)この書籍を一読では理解出来ないだろう。理解、ではない。恐らくそれは「解析」だ。解析、出来ないだろう。ここにあるのは古からの時間……いや、違う、進化……違う、記憶? いや、思いで。共にい続けることの出来ないままの、少年たちの交感。
 この部分だけでも思い浮かべてみて欲しい。

 魚がその胎にH2Oを内包しているとしたら、それはそこに空がひろがっているからだよ。海沙貴のなかにはひろい海がある。柳臣は森を持っている。君はきっと、……空を持っているね。
(引用、一部省略)

 少年のなかには世界が内包されている。その広過ぎる途方も無さを封じ込めている、それがこの本の尊さだ。

 喩えば古い小壜に海水に晒され続けて読めないような地図が入っていて、海辺に到達したときを僕は連想する。解読出来ない地図を、それでも僕は大切に取っておく。いつか意味が解る日まで、何度も何度も見返してしまう。まだ分からないその詩語を。まだ分からないその組成図を。そしてあるとき、この本の表す教唆に打たれて、僕はそのとき、きっと泣いてしまう。

 ……でもこんな風に遠回りのような案内をせずとも、本当は、この本はただ、重なりゆく暗喩と少年の示す美しい螺旋に酔う悦楽であって、つまりは読書の醍醐味である。

推薦者泉由良

ことばに揺さぶられる痛みと恍惚
冒頭の数行からあっというまに海へ引きずり込まれる感覚。凄い。ことばが静かに殴りかかってくる。ずしりと身体の奥へ沈むことばたちに、あっというまに物語の中へ連れ去られます。

烏丸、伊呂波、海沙貴、柳臣??4人の少年たちと水蓮博士。少年たちはかつて共に過ごして(過ごしたという記憶で)、いまは烏丸はひとりになっています。再会した水蓮博士のデータベースから伊呂波、海沙貴、柳臣の記録をたどること。その距離感はどうしたってかなしく感ぜられます。「覚えているかい?」というような呼びかけ、手紙やノート…。物語はつねに記憶、すなわち過去の幻影をたどり紡がれます。
しかしすべてははっきりとは断言されなくて、夢うつつのような筆致です。読み手の私はきょろきょろと辺りを見回します。これは誰のことばだろう、ここはどんな風景だろう、これは何を示唆しているのだろうか。それは小説の中で自覚的に迷子になる体験で、心もとなく、しかしどこか興奮していました。意図的に漢字をひらかれた文章は静謐で湿り気を帯び、記憶とそれにともなう痛みを揺さぶります。

小説の中で迷子になると、つい自分の個人的な記憶を重ねてしまいます。過ぎ去った日々の記憶にふと呼び戻される痛み。読む人によって想起されるものは異なるでしょう。もっと冷静な読み手であれば、まるでちがうことを読み解くのでしょう。私がぐずぐずと思い起こすことはまるで見当違いのような気もします。作者さんの真意とはかけ離れたものを見出してしまっている気もします。
けれどこの小説の静かな佇まいは、読み手のあらゆる想起を(いっそ妄想さえも)、許してくれている気がしました。滅んでゆく景色をただ滅んでゆくものとして描き、教訓も美醜すらも排除されています。ただ静かにことばは投げ出され、読者に委ねられている。そんなふうに思えました。

読み返すたびにちがう景色が広がり、痛みはえぐられます。からだの奥へ奥へと向かっていくことばを繰り返し読むのはヒリヒリする体験で、しかし快感です。
お守りのように自分の中にしまっておきたいことばや文がいくつもあって、そういう読み返し方は詩集や句集を手に取ったときと似ているかもしれません。オデッセイ。オデュッセイア。なるほど、読む人のこころをもまた長い放浪に連れ出してくれる、そういう小説でした。
推薦者オカワダアキナ



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