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降りはじめの雨は螺旋がゆるい。雨粒はすぐにほどけて垂直に地面に落ちる。 |
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生物がみな海から生まれたこと、そして海は宇宙から生まれたことを強く意識させる物語でした。死の、滅びの淵にあるというよりは、海へ還っていく間際というイメージで、けれどその海は原始のものではなく、あらゆる生命を育み産み出し、海から巣立った生命が再び帰着するところで有機的に濃密な混沌であるように思います。 同じ場所のはずなのに。描かれる海は様々に表情を変え、白く黒く、楽園のようで単なる断絶のようでもある。誰もが静けさに満ちたそこへ向かう寂しさと悲しさとを感じました。 けれどそれは悲観的なのではなく、揺るぎない事実の結果。有機無機、生命がどのような変質、変態を遂げてもいずれ海に還り、らせんはほどけてまた結ばれる。 純文学にしてSF、個人的な意見ですが萩尾望都先生の絵で見てみたいと思いました。 しんしんとした余韻がどこまでも果てしなく広がるよう。 | ||
推薦者 | 凪野基 |
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──僕たちは(この書評については、私の一人称は「僕」になるのだ)この書籍を一読では理解出来ないだろう。理解、ではない。恐らくそれは「解析」だ。解析、出来ないだろう。ここにあるのは古からの時間……いや、違う、進化……違う、記憶? いや、思いで。共にい続けることの出来ないままの、少年たちの交感。 この部分だけでも思い浮かべてみて欲しい。 魚がその胎にH2Oを内包しているとしたら、それはそこに空がひろがっているからだよ。海沙貴のなかにはひろい海がある。柳臣は森を持っている。君はきっと、……空を持っているね。 (引用、一部省略) 少年のなかには世界が内包されている。その広過ぎる途方も無さを封じ込めている、それがこの本の尊さだ。 喩えば古い小壜に海水に晒され続けて読めないような地図が入っていて、海辺に到達したときを僕は連想する。解読出来ない地図を、それでも僕は大切に取っておく。いつか意味が解る日まで、何度も何度も見返してしまう。まだ分からないその詩語を。まだ分からないその組成図を。そしてあるとき、この本の表す教唆に打たれて、僕はそのとき、きっと泣いてしまう。 ……でもこんな風に遠回りのような案内をせずとも、本当は、この本はただ、重なりゆく暗喩と少年の示す美しい螺旋に酔う悦楽であって、つまりは読書の醍醐味である。 | ||
推薦者 | 泉由良 |
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冒頭の数行からあっというまに海へ引きずり込まれる感覚。凄い。ことばが静かに殴りかかってくる。ずしりと身体の奥へ沈むことばたちに、あっというまに物語の中へ連れ去られます。 烏丸、伊呂波、海沙貴、柳臣??4人の少年たちと水蓮博士。少年たちはかつて共に過ごして(過ごしたという記憶で)、いまは烏丸はひとりになっています。再会した水蓮博士のデータベースから伊呂波、海沙貴、柳臣の記録をたどること。その距離感はどうしたってかなしく感ぜられます。「覚えているかい?」というような呼びかけ、手紙やノート…。物語はつねに記憶、すなわち過去の幻影をたどり紡がれます。 しかしすべてははっきりとは断言されなくて、夢うつつのような筆致です。読み手の私はきょろきょろと辺りを見回します。これは誰のことばだろう、ここはどんな風景だろう、これは何を示唆しているのだろうか。それは小説の中で自覚的に迷子になる体験で、心もとなく、しかしどこか興奮していました。意図的に漢字をひらかれた文章は静謐で湿り気を帯び、記憶とそれにともなう痛みを揺さぶります。 小説の中で迷子になると、つい自分の個人的な記憶を重ねてしまいます。過ぎ去った日々の記憶にふと呼び戻される痛み。読む人によって想起されるものは異なるでしょう。もっと冷静な読み手であれば、まるでちがうことを読み解くのでしょう。私がぐずぐずと思い起こすことはまるで見当違いのような気もします。作者さんの真意とはかけ離れたものを見出してしまっている気もします。 けれどこの小説の静かな佇まいは、読み手のあらゆる想起を(いっそ妄想さえも)、許してくれている気がしました。滅んでゆく景色をただ滅んでゆくものとして描き、教訓も美醜すらも排除されています。ただ静かにことばは投げ出され、読者に委ねられている。そんなふうに思えました。 読み返すたびにちがう景色が広がり、痛みはえぐられます。からだの奥へ奥へと向かっていくことばを繰り返し読むのはヒリヒリする体験で、しかし快感です。 お守りのように自分の中にしまっておきたいことばや文がいくつもあって、そういう読み返し方は詩集や句集を手に取ったときと似ているかもしれません。オデッセイ。オデュッセイア。なるほど、読む人のこころをもまた長い放浪に連れ出してくれる、そういう小説でした。 | ||
推薦者 | オカワダアキナ |