出店者名 つばめ綺譚社
タイトル 喫茶カサブランカ
著者 伴美砂都
価格 150円
ジャンル 掌編
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紹介文
サークル紹介雑誌「つばめの巣」第一号に掲載した「喫茶カサブランカ」、同第二号に掲載した「蛍光オレンジのコスモス」ほか書き下ろし二編を加えた短編集。
収録作品:「喫茶カサブランカ」「蛍光オレンジのコスモス」「蛙」「獏」

その喫茶店は駅の地下街の隅っこに、ひっそりとある。
喫茶カサブランカ。

当然のごとく、マスターは沢田研二のファンである。と、思われる。多分。カサブランカというのは植物の名前なので、もしかしたら違うかもしれない。いや、違う可能性のほうが高いかもしれない。大体いつもレジにいるのはマスターの奥さん(これも多分)と思われるおばさまで、マスターの顔は見たことがない。あるいはおばさまが女主人であるのかも。こうして考えてみると、世の中には不確定なことの何と多いことか。
相席用の八人掛けのいちばん入口側に座って、ふっと顔を上げた視線の高さに、おそらく紙でできた、白いメリーゴーラウンドのオーナメントが置いてある。それに手を伸ばして触れるところを想像する。何度か想像するが、実際にはしない。

 メリーゴーラウンドではなく足元に置いた鞄に手を伸ばした私の腕、肘から下の外側の皮膚に、薄い傷跡がある。かさぶたが日焼けし損ねたようにみえる白く細い跡。
 妹がリストカットをしていることを知ったのはいつのことだったろうか。昔、私も妹もピアノを習っていた。ふたりとも練習が嫌いで、うまく弾けないと癇癪を起こしたので、母は手を焼いていたことだろう。結局、私は幼稚園を卒園する前に、妹も小学校低学年のうちにはレッスンを辞めてしまった。指先の小さな傷、ピアノの蓋で怪我をしたと言った小さな傷跡は、そのはじまりだっただろうか。あのとき、我が家には剃刀が置いてあったろうか。
 私の腕の白い傷跡は大学時代より後に付け始めたものだ。思ったよりくっきりと残っているけれど、彼女の手首の内側にある赤黒く盛り上がった跡には遠く及ばない。痛みの少ない外側を、切れ味の悪いカッターナイフで削るようにするだけで、お風呂で使うような剃刀を横に滑らせることはしない。よく見てそれとわかるかどうかも曖昧なほどに、すぐ消える。その傷をつけてから消えるまでの数日間、私はことあるごとにそこを見て、安心したり、後悔したりする。