出店者名 イン・ビトロ・ガーデン
タイトル タフタの繭
著者 灰野 蜜
価格 900円
ジャンル 純文学
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紹介文
B6判(128×182mm) 手製本
本文40頁
2016年6月26日 初版発行

花と緑に満ちたその部屋で、私は香りが導く夢を見た??。
心の《調律》を行なっていると穏やかに微笑む男が編む香りは、私を意識の奥深くへと潜り込ませてゆく。
意識と無意識、夢と現の狭間で織りなす紋様を綴った短編小説。

 一歩踏み出した踵の下で耳に馴染んだ足音が響いたことに、私はひとまず安堵を覚えた。最早私の足の一部であると思えるほどに履き込んだ山羊革の靴のヒールが立てた音は、稽古場の板張りの床の上で聞くのと同じ音だ。
 煉瓦造りの古いビルの一室。その床にまさか土が入れられているのではないかという疑念を抱いたのは、部屋中を埋め尽くさんばかりに据えられた樹や花々という視覚的なインパクトのせいだけではない。ここが森であると錯覚しそうな程に濃い、植物の匂いのためだった。
 天井が高く圧迫感は感じないが、そう広くはない部屋だ。正面の壁に大きな窓があり、部屋の中央には寝椅子とサイドテーブルが据えられている。部屋の隅を古惚けた木製の机とどっしりとしたキャビネットが陣取り、簡素な作りだが頑丈そうな椅子が添えられていた。家具らしい家具はそれだけだ。
 残りのほぼ全ての空間を、植物が埋め尽くしていた。
 陽射しの差し込む窓の近くには、天井に届きそうなほどに背の高い木々が立ち並ぶ。葉の形ひとつとっても丸い葉、尖った葉、様々だ。照明が吊るされていたのではないかと思しきアイアンのチェーンには籐の籠がぶら下がり、蔓性の植物が垂れ落ちている。陽の当たらぬ部屋の隅にはシダや苔類の鉢が並び、天井からはアンティークのレースのようにドライフラワーが折り重なって吊り下げられていた。
 室内の雰囲気だけを見れば、ヨーロッパの古いアパートの一室と言われても頷ける。そんな部屋を温室としてリフォームしたのだろうか、というのが私の率直な印象だった。だが、人に見せるための作りには見えない。一体何のための場所なのだろうかと訝しみながらまた一歩、足を進めた。木製の床に足音がひとつはっきりと響く。
「いらっしゃいませ」
 その音に反応するように、男の声が響いた。驚いて瞳を向けた花の向こうで、男が立ち上がる。彼の右手には花きり鋏が握られていた。


しあわせなネバーエンド
「曲を作るときは死かセックスのことしか考えてない」と言ったのはスピッツの草野マサムネだった。
同じように、死とセックスをはらんだ創作物をしばしば見かける。
その多くは良作である。「タフタの繭」もそうだった。
いや、正確に言うならば、この作品からは「死」の匂いだけがした。
そういう創作物はあまり記憶にない。
ただ静謐と、死のことだけがうつくしく描かれていた。

「死の匂い」、といわれて、何を想起するだろうか。
晩夏の夕暮れのアスファルトの匂い、
脱脂綿にふくまれたオキシドールが乾く匂い、
終電を逃した駅のホームに吹く夜風の匂い。
おおむねそれは、「喪失」に関わるものだろう。
しかし「タフタの繭」が与える「死の匂い」はそうではない。
青々しく茂る植物の匂いだ。
古いビルの一室を埋め尽くす植物のむせるような生々しい匂いだ。
その場所こそが、「タフタの繭」の始まりであり、終わりである。
その「植物の部屋」を舞台に、物語は進行する。
その部屋のなかでは男性が心の<調律>を行っている。
誘われるまま、主人公は彼のセラピーを受けることになる。
セラピストは、匂いをテーマに主人公に夢を与える。
夢は現実であり、現実は夢であり、互いに影響を与えるものだと彼は言う。
しかし主人公が見るのは悪夢ばかりだった。
最後に救いを求めた匂いは、もちろん極上の夢を与えてくれる――。

主人公が最期に求めた匂いと、おそらく同じものを私はこの小説から感じた。
「植物の部屋」に行ってみたいな。そう思ったのだ。
セラピーを、心の<調律>を受けてみたいな、そう思った。
この小説のしずかで端正な描写は、
部屋の様子を、セラピーの様子を、克明に想像させ、
私をその場所へといざなう。
それは想像でしかない。
ただ、夢と現実が繋がっているように、
小説のなかの世界と私の世界とは繋がっているはずだ。
いずれ私は小説のラストシーンへと行き着く。
私だけじゃない、誰だってそうだ。
それはハッピーエンドと呼ばれていいものだと思う。
そうでなければ、ネバーエンドだ。

うつくしい文章を求めている人にこそこの作品を送りたい。
この作品は、そんなあなたの弱さを救ってくれるだろうから。
推薦者あまぶん公式推薦文



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