出店者名 パレオパラドキシア
タイトル きょりかん
著者 海老名絢
価格 500円
ジャンル 詩歌
ツイートする
紹介文
ひと・もの・こととの距離や関係について描いた詩14編収録。
(A5・表紙込み44p・2017/1/22発行)


【目次】
見つめる/ボトルの底/ひとみをうるおす。/距離感と居所/クリックと信仰/混線/夏至/読む行為/嵐/影/靴跡/星をつなげば/断絶/ゆっくりと滅びていく

http://aya.oops.jp/o/kyori.html

   夏至

静かに静かに雨は降っていて、
寒いと声を出すことすら許されない。
夏至。
陽が最も長い朝から、どんよりと落ちている。
冷たいビニール傘が水滴に塗れるさまを、見るともなしに見て。
街がゆらり揺れる。

さらさら流れる時間の果てへ
行き着くことすら息切れする。
ちゃくちゃくと進めないこの脚を捨て去れれば
新たな物語を紡げるだろうか。

遠い雷鳴。
気詰まりな身体に温度を持つ。
息遣いが跳ねて、存在をわずかに主張する。
どこへでも行ってしまえと思いながら
ここにとどまって息をしている。

色づく傘を重ねて、表層だけ賑やかな街。
薄く鳥肌を立てて来ないバスを待っている。


きょりかんの強さ
人と人の距離感を定義するものは、わたしとあなたの感情だ。
それは、わたしの思うあなたとの距離感は、あなたが了解したものではなく、あくまで私の願望に過ぎないかもしれないということだ。

この詩集のわたしは、あなたとの距離を見誤り、あなたを間違える。
能動的にあなたとの距離感を定義しようとしているかと思いきや、あなたから輪郭線を千切られ、弾かれもする。
距離感は綱引きのように、ひとつところに留まっているものではないけれど、
そもそも、わたしとあなたは綱引きを出来ているか分からない、そのような不安に満ち満ちている。

だからこそ、漢字の確固とした「距離感」ではなく「きょりかん」なのだろう。
人に言葉を、特に関係性を決定づける言葉を投げつけるのはとても勇気が要ることだ。
精一杯の強さの「きょりかん」と名付けられた詩集には、そんな優しい不安が言葉として結実している。
推薦者南森町三郎

光とのきょりかん
分かりやすさが売り物の価値だとある歌詞でうたわれた。
その歌は確かあまり売れなかったので、皮肉にもその言葉を自己証明した形になった。
三段論法でいえば、「売り物の」という言葉は省略してもよい。
分かりやすさは、そのまま価値なのだ。

その定理に従うなら、「現代詩」というものは弱い。
まず、分かりにくいし、つまらない。
それが分かっていながら、現代詩を愛する人は一定数いる。
彼や彼女は何を求めてそれを読んでいるのだろうか。
ひとりひとりに訊いてみたい気がする。私もそのひとりだが。

私が現代詩を読むときに求めるものはといえば、それは「空振り感」だと思う。
例えば夏の高校野球の、最終打席のような、
居心地のわるい、恥ずかしい、でも少し気持ちのいい空振り。
誰にだって、人生においてそんな空振りをした経験があるはずだ。
だとすれば、その「空振り感」が後の人生をどれだけ豊かにしたかということも、
分かっているはずだ。

前置きが長くなったが、海老名絢「きょりかん」について。
この作品が「現代詩」だと思うのは、
丁寧に選び抜かれ情景を構成する言葉遣いと、それと人間が描かれているところ。
「きょりかん」という言葉のとおり、いくつかの詩には人と人の関係、
「きょりかん」が描かれている。
多くは男女のそれだ。
すこしエロティックで、肉体的かつ感情的で、
しかし恋人と呼ぶにはたよりない。
そんな非決定的な人間同士の「きょりかん」が描かれている。
ひとつひとつの言葉を追い、関係を見つめながら、
「なんだか危ういな」と思ってしまう。
この詩集には、ハラハラさせられてしまう。
ひとは、危険を感じるとそれを恋のように勘違いしてしまうらしい。
この気持ちが勘違いでなければいいのにな、
詩集を閉じたあと、そう思ってため息をひとつ零した。

現代詩を読み終えたときの感覚がいっとうに好きだ。
そこに、私が現代詩を読む理由の全てがある。
「空振り感」といってしまえばかんたんで、でもほんとうは、もっと難しい。
海老名さんの詩を読み終えたとき、私には「音楽が聴こえる」。
外を走るトラックの音とエアコンの音しか響かない部屋のなか、私の耳に聴こえる。
私を誘うのだ、「こっちだよ」と、甘いメロディーラインで。
それをタナトスだなんて言われたくないし、かといってエロスでもない。
その間を揺れ動く微妙な「きょりかん」、
空振りする瞬間に脳裏に浮かび上がるホームランの幻影、
闇にかすむわずかな「光」のような詩集だ。
推薦者あまぶん公式推薦文

そこにあるものを光と呼ぼう。
硝子壜のようだ、と読みながら想う。
喩えるならラムネの壜。あの、あおとも緑とも云い得ない、固有の名前ではな硝子色。
書き手が何度か自らの輪郭に迷い、困惑する様子。それも硝子を想わせる。硝子は透明だから、透けているのに向こう側と断絶する。そのひずみがもたらす心のさむさ。

筆者と世界(もしくは「あなた」)との断絶は、そんな硝子壜のような歯痒さで、だからこの壜も透き通ったクリスタルグラスではない。何処か曲がりそうになったり、曇りガラスのようだったり、磨りガラスのようだったりするガラスのボトルだろう。

そんな風に断絶や混迷や混乱が揺れているのに、筆致は常に透けている。

詩集を読みながらいつも、この壜の底には常に透明できらきら煌めくものが見えている。それは言葉の選びようだったり、語の置き方といったセンスなのかも知れないが、そのきらきらを私はそれを、最後は光がそこにあるからだと云いたい。

自身と世界を繋げる感性に、定義し得ないでいるひとに手に取っていただけたら、大切な一冊になるのではないかと思う。勿論そうでないひとにも、違う自分と出逢うために是非。
推薦者白昼社



推薦する
お名前
メールアドレス
推しコピー
推薦文(1000文字以内)

セキュリティ文字 「あまぶん」と入力してください